ようこそ 鞍陵25回のリレーメッセージへ

Aルート
牟田 淳一 副実行委員長 (3年1組)
直方支部長長野君(1組)の発起による「集まろう会in筑豊」が発展して決起集会という少し大げさな?会になりましたが、たくさんの同窓生に集まっていただきました。(会場・グラン・テビュ)鞍陵会本部から、坂田会長、田淵幹事長をはじめとして、本年度当番幹事の24回生が6、7名、私達25回生が40名程、計50数名の集まりになりました。吉田実行委員長の挨拶をはじめに、鞍陵祭に向けての実行委員の役割分担、各部会の活動状況を報告しました。少し遅れて到着した坂田会長からは、私達に励ましの言葉をいただきました。そしてもっと地味な鞍陵祭でもいいのではないかという意外な言葉を聞きました。また先輩の中から、この時期(1年半前)からの準備に対して息切れはしないか?といった懸念もあったようでしたが、着々と準備が進んでいることを確認しました。続いて懇親会が和やかな雰囲気の中で行われました。
私自身は卒業以来初めて中川君、川上君、吉宗君(以上1組)と北九州組に会うことが出来ました。また、今まで準備等を通じて学校時代は口も聞いたことのない人と友達になったり、話の中で子供同士がクラスメートとわかり驚いたりしています。卒業以来、人との出会い、別れを幾度となく繰り返している私達ですが、こういう場を借りて再び出会う事ができました。この貴重な出会いを通じて、同窓生の一人一人が何らかの形で参加して鞍陵祭の成功に向けていきたいものです。最後に企画準備をしてくれた長野君、また事務局の皆さんありがとうございました。
次の投稿の指名をさせて下さい。渡辺副実行委員長よろしくお願いします。

渡辺 和則 副実行委員長 (3年5組)
牟田君の指名で今回は、渡辺(通称;カズ)が鞍陵25のスッタフとして感じたことを書かせていただきます。御意見番の牟田君と違いまして、同じ副委員長でも私は、定例会議での開会の辞『始めまーす』の一言を言えば仕事は終わりです。これだけではと、記念誌部会にも所属していますが、ここでもモッチャン(本浪君)、シイチャン(林君)に任せきりです。(お金集めの時は、頑張るぞ)
当番幹事まであと1年となり、あっという間に本番を迎えることと思います。
鞍陵25のプロゼェクトは2001年8月をもって完結ですが、これまでにも、懐かしい再会や高校時代と違った新しい発見などで楽しみながら手伝っています。これからもいろんな意味での広がりの中で、関わりが持てたらと思っています。今年の鞍陵祭には多数参加して下さい。みんなでワイワイ騒いで飲みましょう。
次の投稿の指名をさせて下さい。森副実行委員長よろしくお願いします。

森(吉田)真利子 副実行委員長 (3年2組)
鞍陵祭には、たくさんの出席をいただいて本当に、ありがとうございました。
今年は来年一緒に活動する50回生と二次会を共にしました。25年の差があるとはいえ、あの愉快なノリに、ついつい顔がほころび目を細めた人も、多いのではないでしょうか。あの若者のエネルギーに、たとえ四十肩持ちでも(これ私です)胃の調子が悪い彼でも(胸きゅん男) 時々目が霞むあなたも・・・・・・言い始めると止まらなくなりそうですが、決して引けを取らない25回生を、感じてしまいました。きっとそれは、あの高校時代に舞い戻れたからかも知れませんね。
来年の本番が、少しづつ近づき具体的にいろんなことが決まり始めてくると、今年の宮田鞍陵祭を思い出します。佐野君を中心に、チームワークの取れた手作りのよい見本を見せてもらい、本番もああありたいなあと、最近ふと思う次第です。私も役をいただき役目をちゃんと果たせないままで申し訳ないのですが、でもそのお陰で楽しい仲間と沢山の語らう時間をプレゼントされた気がしています。
頑張らなくっちゃ!!の心境です。
さて次回は、東京支部で頑張っている植木順子さんにバトンタッチしたいと思います。

植木(山本)順子です (3年7組)
東京鞍陵祭が無事終わり、何だか心にぽっかり穴が空いたような気持ちです。
当日はお忙しい中、地元からもたくさんの方が上京していただき本当にありがとうございました。宮田鞍陵祭のようにすべてが手作りの会ではないのですが、この日の為に東京鞍陵祭の幹事をしている原君が、数年前から関東在住の25回生に折にふれ、はがきを出して下さり、私たちの気持ちを1つにしてくれたおかげだと思います。これからも、老後までも時々集まろう会をして楽しい時間を過ごしましょうね。
先日、久しぶりに姪(50回生)に会ったら、「叔母ちゃん、どうしてそんなに同窓会のこと熱心にやれるん?」と尋ねられました。30年経った今だから、ときめいていた青春時代を懐かしんで、同窓生に会うと当時の自分に戻れそうな気になるのです。
20世紀も残りわずか、新たなる世紀を迎え、これからますます地元実行委員会のメンバーの皆様は大変だと思いますが、お体に気をつけて頑張って下さいませ。2001年8月4日には東京のメンバーも大挙してお手伝いしますのでよろしくお願いします。
さて、次回は名古屋で大活躍している佐藤(南)かよ子さんにバトンタッチしたいと思います。

佐藤(南)かよ子です (3年7組)
はじめてお便りする3年7組の南です。名古屋に住んで10年になります。各地で開かれる集まろう会や支部鞍陵祭の様子をーみてるだけー イヤー読んでるだけーでしたが次々に届くニュースは楽しく読ませていただいています。実行委員会の方々には心から感謝しています。
21世紀がスタートしました。私たちの鞍陵祭が開催されます。私たち25回生は、鞍陵祭で世紀を超えたと人生を振り返るでしょう。ニュースに登場するみんながすごく魅力的です。あの鞍高坂で肩を並べた一人一人が人間味を増して再びがっしりした肩を組み、大きな輪をつくっているのがニュースを読むだけでわかります。いっしょに肩を組んでいない自分が申し訳なく残念に思っています。
8月4日はみんなといっしょに乾杯のビールを飲み干そうと楽しみにしています。高校生の母になっても、鞍高を卒業してよかったと、しみじみ思えるのはみんなのおかげです。 中部地区は、みんなについていってない感じですね。次は同じ名古屋に住む高山裕子さんにお便りをお願いしたいと思います。
次の投稿の指名をさせて下さい。佐藤裕子さんよろしくお願いします。

佐藤(高山)裕子です (3年4組)
鞍陵祭が終わって半年が、過ぎました。皆様、特に実行委員の皆様 ほんとうにお疲れさまでした。
私は、遠いことを言い訳にして、当日それも、たったの半日、参加したにすぎませんでした。にもかかわらず、私の名札が用意され、Tシャツがあり、バンダナが、ありました。それらを身につけると気分はもうすっかり実行委員のメンバーでした。ひさびさに見る友だちの顔、「これ、お願い。」「よっしゃあー。」と、かざりのないやりとりの中、ダラダラ汗を流しながら忙しく走り回ることが、こんなに心地よかったのは、ほんとにひさしぶりでした。
今、私は、ヘルパーとして、ひとりぐらしや寝たきりのお年寄りの介護の仕事に携わっています。仕事が、終わった後、こんな心地よさ、爽快さを味わうことは、なかなかありません。むしろ毎日、毎回、心が重くなっていくようです。独りぐらしが、不安でたまらないおばさんのところへ、たった、週に2回、2時間訪問して、その方の不安をどれだけ受け止めることが、できるだろう。夜が恐いと言っておられるのに「戸締まりをしっかりね。」という言葉が何の役に立つのだろう。自問自答の日々です。でも、たとえ数時間の訪問であっても、いっしょにいる時間を心地よい、あったかい時間にしたいと、今、心新たに思っています。
鞍陵祭は、私に若い時のエネルギーを思い出させ、与えてくれました。私にとって、とてもうれしい夜でした。
さて、つぎに、バトンッタチするのは、栗きんとんのおいしい中津川でがんばっている掘恵子さん(岡田恵子さん)です。恵子さんよろしく。

掘(岡田)恵子さんに代わり、安部 瑞恵さんにお願いしました。

安部 瑞恵です (3年4組)
鞍陵25回 <和(なごみ)の会?>の皆さんお元気ですか。
世の中、戦争だSARSだ、拉致だ地震だ…となんだか混沌の極みといった感がある中、ワタクシの〜んびり病院生活を楽しんでいます。外泊許可をもらい2週間ぶりに我が家で熟睡した翌日、原稿依頼の電話。あれこれ話しているうちに、奇しくも電話の主MYさんも12時間ほどの時差で負傷していたとか。「もう、年よ!」「ホント、もう年ねえ。」  《それならやっぱり元気なうちにやれることやっとかなくちゃ!会えるうちにみんなと会って、話して…支部同窓会やっぱり行こうっと。》というわけでOKしたものの、はてさて、m m m。時間はたあっぷり、文才は××××   えーい、こうなりゃへたな歌でも聞いとくれ、と居直ることにしました。
  骨折りて 新たな交友 恵まれし これもご縁と 白き手合わす
  おかあさん さびしかったよ おるすばん あったかおひざ ひとりじめだNYAn 
  もう行くの? お泊まりいくつ? すぐ帰る? ひとりサッカー 楽しくないよ

愛娘、恵(けい)<楽しい時も悲しい時も10年間寄り添って暮らしてきた家族です。>とは、2〜3日に一度は帰宅し一緒に遊んではいるが、彼女はよほどストレスが溜まっているのだろう、今夜ばかりはいつもの深夜のスタートダッシュ&サッカーに興ずることもなく、ギブスを枕にグーグーゴロゴロムニャムニャフーッ。決して離すものかと、持ち合わせの表現力120%で、ママの愛、いや、腕を独占している。おかげで私は上腕部までしびれるはめに。翌日も、いつもなら抱かれるのが嫌いで自分一人で好きなだけ寝て遊んで知らんぷりなのに、またすぐいなくなるんでしょ!とばかり、一日中ぺったりくっついている。いがいがクッツキボそのもの。久しぶりのブラッシングにも、心地よさそうにのどをグルグルならしてる。そろそろ、病院に戻る時間。「わたしも一緒に行く」とでも言いたいのか、ドアのそばから離れようとしない。ちょっとだけ開けると、クンクン。外気に触れ、まだ暮れきらないのを確かめてでもいるようだ。「今ごろからどこへ行くの?」「お仕事はこんな時間からはないでしょ!今からが追っかけっこの時間なのに!!」もう少しだからね。もう少し辛抱してね。退院したらいっぱい遊ぼうね。後ろ髪ひかれる母。
アレレ??? 愛や友情をテーマに歌をと思いつつ書き始めたのに、娘自慢になってしまいました。ま、いっか。
最後に崇徳院の歌
   瀬をはやみ 岩に堰かるる 滝川の 割れても末に 逢はむとぞ思ふ
恋の歌ではありますが、友を情(おも)う歌とよみ替えてもらって、ここら辺で失礼いたします。皆さんとまたお会いできる日を楽しみにいたしております。再見!! 次は中川祥子さんか、篠原厚子さんにリレーできるかな?

篠原(高柳)厚子です (3年4組)
和みの会の皆様、お変わりございませんか。
随分永いことご無沙汰しておりました。卒業以来、それこそ何十年と行方不明(?!)状態で、捜索願いが出ていた模様です。
長い間のブランクを越えて、再び鞍高の同級の皆様方と交流をもてるようになったのは、当番幹事年の2001年の鞍陵祭がきっかけでした。地元にいらっしゃる実行委員のメンバーの方々が中心となって、会を盛大かつ成功裡に収められた事は本当に素晴らしいの一言でした。私の方は当日、少しだけのお手伝いしかできませんでしたが、それでも世代を問わず、暑い中を喜んで駆けつけて下さった同窓の方々が楽しそうにお酒を酌み交わし、昔話に花が咲き、近況を語り合っていらっしゃる姿を、我が懐かしの鞍高のグランドのあちらこちらで目の当たりにした時、胸にジーンと迫るものがありました。
卒業以来、初めて足を踏み入れた母校。多感な時期の何も知らない自分がそこにはいた。何十年も胸の中で封印していたものが、一瞬にしてはじけた想いがしました。
ところで、今の私はというとこれまたどこから見ても、押しも押されもせぬ立派なおばさん。白髪も増えてきた。目方の方はとっくの昔に増え過ぎている。でもまぁ、毎日を精一杯生きている。この原稿も早く書き上げないとお幸さんが、ハラハラしながら待っててくれている。ごめんね、遅くなってしまって。
懐かしの皆さん、機会があったら私と是非おいしいお酒を飲みませんか?
お身体だけはくれぐれも気を付けて下さいね 次のリレーの方は吉元(木原)さんにお願いします。

吉元(木原)宏枝です (3年4組)
いつも鞍陵25回生ニュースを楽しく読んでいます。
卒業後31年間のそれぞれの素敵な時間が感じられ、幸せな気分になれます。ところで、私の目下の楽しみは花を見ながらのハイキングです。本来なら花が一斉に咲き始める春が一番良いのですが、主人の仕事の関係で毎年6月までは動けません。そこで夏の高山植物を中心に楽しんでいます。でも高校時代(ご存じないかも知れませんがテニス部でした)からは想像出来ないくらい体力の落ちてしまった私は高い山には登れず、楽に花が見られる尾瀬や北海道の礼文島を、普通の人の二倍も時間をかけて歩いています。最近は、乗り物を使えば高い山から楽に「下山」が出来るスイスにも行きました。この25回生ニュースvol25が発行される頃は、今年もスイスでハイキングの真っ最中の予定です。このフラワーハイキングは一生続けたいと思います。そのためにも、「もう少し痩せなくちゃ!!」とは、いつも思うのですが・・・・・。
さて、本部役員の皆様、そして各支部の役員の方々、いつもお世話様です。家の用事や仕事そして介護等で大変な上に、役員活動まで引き受けて下さりありがとうございます。呉々も無理をなさらないで下さい。母が故郷の鹿児島県指宿市に引き上げたため直方に身寄りが無くなった私は、残念ながら鞍陵祭にはなかなか出席する機会がありませんが、東京鞍陵会には出来る限り出席しようと思います。枯れ木も山の賑わいですものね。次は、テニス部でペアを組んでいた秋住(松崎)優子さんにお願いしようかな。

秋住(松崎)優子です (3年7組)
2004年は台風、集中豪雨、地震と天災も多く、被災にあわれた方もおられるのではないかと案じております。
25回生の皆様、お元気ですか?今まで機会がなく、どの集まりにも出席したことがないのですが、毎回、鞍陵25回生ニュースを見ては「お楽しみ会」の楽しい雰囲気にチョッピリ浸って、行ったつもりになっています。
現在、私は結婚以来23年間ずっと下関の安岡という所に住んでいます。ネギの産地として昔から有名であの「ふく刺し」の横についている高級ネギが安岡のネギです。細ければ細く、短ければ短いほど良いそうで、一度知り合いの農家からそのネギをもらったことがあるのですが、「ふく刺し」には縁の無い我が家なので、哀れ味噌汁の具になってしまいました。
下関といえば結構歴史の舞台としてよく登場してきますヨネ!今度の大河ドラマでも壇之浦の合戦が見どころの一つとなるのではないでしょうか。毎年5月に先帝祭といって、安徳天皇を偲ぶお祭りがあり、その時に武者行列も行われるのですが、以前は義経とか有名な人物には応募して、数が多ければ抽選でなることが出来ました。それで、子供が小さかった頃、子供と二人で安徳帝と建礼門院の役に応募してみようかなと言ったところ身内の者の「建礼門院というよりも年齢的には二位尼に近いやん」と言う一言で、愕然としてしまい「やっぱ、やめとこー」と断念した苦い思い出があります。高校生の息子は長府にある関門海峡のすぐ横の学校に通っています。彼の友人の中には市の中心部から壇之浦を通り海峡沿いに自転車で通学している人もたくさんいて、その内の一人二人は武者姿の人(?)がボンヤリと道端に佇んでいるのを見かけた事があり、そういう時は思いっきり知らんふりして通り過ぎるって言っていたヨ。と、何ともミステリアスな出来事を息子が話してくれたことがこともあります。
皆さんぜひ歴史とミステリーとおいしいものいっぱいの下関で今度「お楽しみ会」を開いてみてはいかがでしょうか。
それでは2005年の皆様の健康とご多幸を祈りつつ、次は2・3年生で同じ組だった「安べえ」こと添田(安永)公子さんにお願いします。

添田(安永)公子です (3年7組)
マンションの一角から、四角に切り取られた空を見ながら・・・
人生の折り返し点を過ぎ、今年はいろんな事がありました。全国的に頻発している地震。まさか?福岡で体験するとは、思ってもいない事でした。
皆さん、被害なく過ごされていると願っています。ほんと怖かったですね。看護師として、まだ仕事に就いている身としては、災害に備えて色々検討中ですが、揺れている最中はオロオロと、自分の身の置き場もなく、「現実に何が出来るのだろう?」と思ってしまいました。
今や、パソコンが家庭や仕事場に普通にある、その中で、今まで以上に生活のリズムが速くなり、オフの時も仕事を抱えている、そんな中で、子供に楽しませて貰った、野球もサッカーも、今はもっぱらTV観戦のみ、オヤジのような生活をしています。(ワールドカップ出場決定・交流試合楽しんでいま〜す。)
会報から、各地で集まって楽しい時を過ごされた、皆さんの様子を伺い、懐かしくまた、羨ましく拝見しています。卒業してから、30年を越して、それでも会うと高校生の時のままの感覚が甦って来る、素敵ですよね・・・。まだまだ全速力で疾走している皆さんへ、
《 時には一休み一休み 》精神科看護師からの一言でした。
 次は化学部つながりで中川博文くんにお願いします。

中川 博文です (3年1組)
添田公子さんからのご紹介で投稿させていただきます、3年1組の中川です。
私は4月から沖縄へ単身赴任しております。皆さんの中には沖縄へ行かれたことのある方も多いと思います。
実は私はまるっきり初めての沖縄でしたので、「驚きもあり」「素晴らしさもあり」を実感している毎日です。
ここは、日本で唯一の亜熱帯気候ですから、皆さんが寒い思いをしていらっしゃる師走でも、風がない日は半袖でも過ごせますよ。なにしろ12月で20℃あるから、寒がり屋の私にはもってこいです。そして空も海も青く澄んでいて、人もとても親切に感じます。なにか昔は自分たちの周りもこんな風に人と接していたような気がして、懐かしい気持ちにさせてくれます。それは、ときどき行く宮古島や石垣島ではもっと強く感じられ、ゆったりとしかもやさしく生きていく姿が、いまからの人生で大切なのではないかと考えられさせます。
ところで、食べ物の方はというとやっぱり果物、なかでもマンゴーはうまかった。感動ものです。パパイヤは野菜として青いものも食べます。肉は脂身のないいわゆる赤肉、これがけっこういけます。でもなぜか魚は金魚がイメージされ、食指が動きません。
沖縄は睡眠時間が日本一短いそうです。それは夜遅くまで泡盛を飲んで友人と語らうからだそうです。まあ始まる時間が遅いし、時間厳守なんてあって無いようなものだから。良い方に解釈するとスローライフってやつです。
そんな様子ですから、太らないようにゴルフとテニスと休日登山で体調管理しながら、せっせと香椎の自宅へと帰っております。
乱筆になりましたが、締め切り期限を過ぎ東さんや内田さんにご迷惑おかけしました。申し訳ありません。
つぎのリレーは、小中高と同じの3年1組山口章くんへお願いします。

山口 章です (3年1組)
オトシマエ付けてよネ
我々の3つ年上の村上龍は佐世保北高の時計台によじ登って垂れ幕を掛け、アジビラを撒いたそうですが、25回生が入学した頃の鞍高では当然そんな事はナーンも無くて、進学した大学でもストも封鎖も一度も無い平穏な学生生活でした。彼らの取った行動を賞賛するつもりなど全くありませんが、自分は全共闘運動にちょっとだけ遅れて来た世代だという、幾分劣等感に近いようなヘンな自覚が有ったので、ベビーブーマーで全共闘やっていた人たちがその後何をして来たのか(して来なかったのか)、ずっと気になっていました。具体的に知っている活動家達で運良く学生時代にブラックリストに載らなかった人は、普通に社会に出た後、今は税務署長とか国立大教授だったりして、それはちょっと違うんじゃないの?と常々不満に思っていました。簡単に言えば、オトシマエ付いてないじゃん、という気分ですネ。世の中どんどん右傾化する中、シンパだった人も含めて、もう一回出て来てする事あるんじゃないの?と呼びかけたい気分なのは、果たして僕だけでしょうか?
というところで、次回のメッセージは、永遠のブラス少年・森部の憲坊・にお願いしようかと思います。宜しくネ。

森部 憲治です (3年8組)
みなさーん、ご無沙汰です。思いがけず、山口章君からリレーメッセージを引き継ぐことになりました。ブラバン部を卒業し、その後、完璧に、ほとんど不義理をやってきましたが、御指名いただきましたので、ねじりハチマキしてリレーしないと・・・。と言っても、何を書けばいいのか。トホホ。気を取り直して、近況報告を対談形式で進めたいと思います。インタビューアー(以後I氏「」)と森部氏(以後M氏『』)です。
I氏「お久しぶりですね。今、お住まいはどちら?」M氏『はい、8年前から神奈川県の大和市に住んでいます。神奈川の県央で辺りは緑も多く、田園の風情もあり落ち着いた所ですよ。渋滞情報で″東名高速大和トンネル30K″とかで出てきます。』「ご家族は何人ですか?」『お陰様で、カミさん一人に長男、次男、長女、次女に三女と7人家族です。』「それはまた大家族ですね?」『はい、皆自宅にいますので、賑やかです。長男は来春就職予定、長女はアパレル関係に就職してやっと一息をつけますが、3人の子供はこれからです。』「お父さん、まだまだ頑張らないといけないですねぇ。鞍高を出て、その後はどんな生活を過ごしたのですか?」『はい、損保会社に就職し、転勤を重ねてきました。初めは大分で次が大阪、東京、横浜、藤沢、2回目の大阪は単身赴任で、次に千葉、今は単身も解消し東京に1時間50分かけて通勤してます。』「それは、ご苦労様です!今も音楽を?」『はい、会社にオーケストラがあってボケ防止も兼ねてフルート吹いてます。腕はともかく、練習後の一杯が楽しくて続いています。』「最近のトピックスなにかありますか?」『そうですね、最近、家族(長男の彼女と一緒に8人で)皆で河口湖に紅葉見に行って来ました。紅葉まつりのイベントもありライトアップされて、それは見事でしたよ。ほうとう鍋をつついたり、岩魚の塩焼き食べたり、大変楽しかったです。関東の方には是非お勧めです。』「最後に、同期の皆様に一言を!」『そうですね、何はともあれ健康で居たいものですよね。50歳を過ぎ、身体のいたるところで不具合が生じる時期ですので、僕も若気の至りでかなり無理もして来ましたが、これからは一層健康に留意して′鞍高100周年′イベントには是非参加したいですね。健康が一番です!。おっーと、言い忘れてましたが、3人の子供達は、実はミニチュア・ダックスです。ひめにレオンにココと言うワンちゃんです。誤解のないように・・・・。』「なーんだ、そうだったんですか。それでは、次にリレーを繋ぐ方を指名して下さい。」『はい、それではずっーとご無沙汰ですみませんが、ブラバンつながりで名トロンボーン奏者だった、″うっちゃん″こと内田直樹君にお願いしようと思います。宜しくお願いしますね。』(06年11月記す)

内田 直樹です (3年8組)
新緑の候、皆様いかがお過ごしでしょうか?手紙文のような始まりですが、大変ご無沙汰しております。森部憲治からの指名で近況報告をさせていただきます。しかし、私の事を覚えていますか?近頃、私も街で知った顔に出会うのですが小学校か中学かそれとも高校の時の同窓生か分からないことが多々あります。結構長い年月が経ったんだなあと実感するこの頃です。
それはさておき、とりあえず生きています。35歳の時、忙しい毎日が嫌になり、自分の時間を持てるようにしようと思い、小さな会社に移りました。そして田舎にアバラ屋を建て、貧乏ですがのんびりと暮らしております。ちなみに本浪君は隣の村に住んでおります。そこは私の村よりちょっと田舎・・・と思います。
次に家族構成ですが、美人の奥さん?とかわいい娘2人とネコ2匹の合計4人と2匹で暮らしています。
それから唐突ですが、私の趣味は登山と読書です。休日は晴耕雨読ではなく晴登雨読を実践しています。山は、近場は福智山、英彦山、ちょっと遠出をして九重連山や宮崎の祖母、大崩などに登っています。遠出の場合は朝3時起、4時出発、愛車のパジェロミニをひたすら目的地の山に向かって走らせます。登山の魅力は、ただひたすら何も考えず頂上を目指して、一歩一歩登ること、そして苦しんだあと頂上に着いたときの爽快感と達成感です。そして頂上から見る大パノラマ!これは一度味わうと本当にハマります。皆さんもどうですか、楽しいですよ。
それからもう一つの趣味の読書は、テレビや雑誌で紹介された書評を見て、図書館や本屋で本を探します。月10冊、年間120冊ぐらい読んでいます。好きな作家はいっぱいいますが、椎名誠や荻原浩などです。少々活字中毒ぎみです。こうやって書いていると休日は遊んでばかりのようですが、時には晴登が晴耕になるときもあります。ちゃんと家の仕事もしています。
長くなりましたので、この辺で終わりにします。皆様、お元気で。失礼します。次回は武田誠さん(8組)にお願いします。

武田 誠です (3年8組)
突然の連絡で驚いています。大阪在住の私には縁のない事だと思っていました。まず自分自身が、福岡や鞍手高校の記憶が段々と薄らいで来ているからです。
皆さんのメッセージや写真を拝見する時だけ、郷愁とうらやましさが込み上げて来ます。
鞍陵際や同窓会に出席が出来れば良いのですが、諸般の都合で叶いません。特に鞍陵際は、決算時期とも重なり一度も参加していません。私がそうであるように、皆さんの私に対する面影が薄らいでいるかと思い、改めて自己紹介をさせて頂きます。
最終クラスは、8組で女子の方が多かったと記憶しています。クラブはどういう訳か体操部と吹奏楽を兼部していました。大阪に来て27年が経過、長男・長女の4人家族です。
最近特に体力の衰えを感じますが、休日だけはトレーニングジムに通い腹筋・背筋や腕力では息子に負けないよう努力を行い、将来孫に公園の鉄棒で蹴上がりや巴を教えることを楽しみにしています。今になって悟ったのですが、「トレーニングは70・80%ですること」100%で進むと120%以上にエキサイトして体が悲鳴を上げることです。ジム通いは20数年続けて大きな故障はなかったのですが、突然膝の違和感が発生、約1年でやっと今戻った感じになりました。音楽との関わりは少なくなっています。以前娘のピアノの発表会で、息子(ピアノ)と友情出演をしましたが、楽器(サキソホーン)を出すのも・楽譜を見るのも久しくこんなはずでは無かったと後悔しました。結局友達(フルート)に助っ人を頼んで何とか凌ぐ事が出来ました。昔取ったは通用しません、今何をやっているかが重要だと身にしみている今日この頃です。次のリレーをパワーライバルだった鉄腕クルミ(萱島くるみ)さんにお願いしたいと思います。

桜井(萱嶋)くるみです (3年8組)
こんばんは、桜井(旧姓、萱嶋)くるみです。
リレートークの連絡が入ったときは、本当にびっくりしました。みんなに会う機会も今までなかったし(作ってないのですが)、私のことを覚えてもらっていたんだあという訳です。今では、実家に帰るのも、2・3年に1回ぐらいになりました。
では、卒業してからの事をかいつまんでお知らせいたします。
田川市にある社会保育短期大学・社会福祉科で2年間・・部活は社交ダンス部に入ったけどヒールの高い靴を履くとひざが痛くて、挫折。陸上はしなかったな。その後、群馬県・高崎市の国立コロニーで2年間。重度の障害者の方との仕事で、散歩したり、風呂に入ったり、ご飯を食べたり、ごく自然に暮していた。そして、いったん実家に帰り、直方のさくら保育園で保母として働いたけど、「スカートはきなさい」「子どもと遊ばず怪我をしないように見ていれば良い」「3歳児以下は外に出さない保育」に嫌気がさして、1年4ヶ月でやめ、埼玉の知的障害者施設へ。ここでは蚕の仕事、畑など一緒にやり、初めての経験が楽しかったな。途中から、昼間の仕事の後、夜は障害者の方6人とアパート暮らしを3年間(夜は無給)。やってくれる人いますか?にすぐ手を上げた訳。この実績があって、埼玉県で施設ではなく地域で暮す「生活ホーム」という制度ができて、生活の援助者に給料が出るようになったんですよ。それがまた、国の制度に発展したのだから、私も役にたったかな。20年間の後、施設を辞め、友人と旦那と障害者の働く場所を作った。仕事は、味噌作りと平飼いの養鶏。7年後は味噌と卵の直売兼喫茶店と生活ホームを。経営は厳しいから、近ければコーヒー飲みに来てねとお願いしたいところだけど。そして、現在は、市会議員で、党派は日本共産党。なんで今こうなのかと思うけれど、いろいろ事情があってね。やりがいはもちろんあるけど、力量が伴わなくて、落ち込んでばかり。平和と弱い立場の人たちも生き生きと暮せる、生きることが保障される、そんな政治を、なんて思いながらの活動で、毎日忙しいなあ。
旦那は、自宅の隣にある生活ホームの援助者。子どもは大学2年生、高校3年生の娘と高校1年生の息子。一番好き勝手しているのが、私、ですね。
えーと、次は誰がバトンを受けてくれますか。陸上部で一緒だった小倉みゆこさんお願いします。

永富(小倉)美裕子です (3年8組)
お久し振りです。くるみさんから突然バトンを渡され、焦ってしまいました。
書くことが思い浮かばなくて、悩んでいたら娘が「娘はバンド活動に明け暮れ、息子は無事(やっと)大学院に進学できました。」って書いたらと助言してくれました。
娘は高二ですが、アルバイトしたり、バンドで歌ったりと、陸上ひとすじだった私とは全く別の高校生活を送っています。今の高校生は逞しいです。
私の日常は、とりたてて書くことなくて、本当に悩んでしまいます。パートで視能訓練士の仕事をして、家では家事に追われ、犬の散歩をして、夜ちょっと本を読んでという毎日です。
職場が少し遠くて車で35分位かけて通勤してます。浜名湖の北をぐるりと半周程走りますが、朝陽に輝く浜名湖は本当にきれいですよ。
我が家の犬は、7歳になったばかりのボーダーコリーで、今の私にとって一番愛しい存在です。彼の顔を見るだけで、思わず笑顔になります。
山本さん、幸さん、お電話ありがとうございました。
次は木野(森下)智代さんにお願いしたいのですが、智代ちゃん、ごめん、よろしく。
では、皆さんお元気で。

木野(森下)智代です (3年8組)
永冨 美裕子さんからご指名をいただいた木野です。美裕子さんとは3年8組の縁で文通を続けている仲です。結婚披露宴にも出席しました、私は宮若市のトヨタ自動車九州工場の近くに住んでます。平成19年6月に退職するまで公務員でした。いろいろ悪名高くなった社会保険事務所に34年間勤務していました。その後健康財団に平成20年9月まで勤めました。そして今は専業主婦を味わってます。子供は二人で娘です。24歳と22歳です。
このコーナーをとおして少し年金について話をしたいと思います。皆さん年金特別便が届きましたか?自分の基礎年季番号を知ってますか?年金特別便に今までの職歴や国民年金の納付の記録が載ってましたか?もし年金特別便が届いてない人がいれば住所変更がなされてない事が考えられます。また基礎年金番号は、平成8年12月に出来ました。以前は、厚生年金・国民年金・各共済それぞれ別に記録を管理していた年金を一元化したものです。記録は統合して初めて年金加入期間がつながります。一人一番号となってますが、職場をかわるごとに年金番号を交付され一人で幾つも持っている人もいます。
同級生の皆さんの年金記録が正しく処理されている事を願います。もし記録に漏れがあれば社会保険事務所で調べる事が出来ます。年金を受給するまでにきちんと整理してください。厚生年金や共済の被保険者の配偶者の国民年金第3号被保険者の記録も、手続きもれがたくさんあり確認が必要です。
そして子供が二十歳になったら、国民年金に強制加入になってます。子供さんの年金の手続きを忘れなくして下さい。昭和29年生まれの私たちが、年金が受給できるのは厚生年金の比例報酬部分は61歳からです。満額もらえるのは65歳からです。(女性は比例報酬部分は60歳)金額は、加入期間や保険料の額によって一人一人違いますが、親が受給している年金にくらべ少ないです。月に20万円もらえる人は、少ないですよ。老後を考えると、年金プラス貯金が必要か・・・と思ってます。
第二の職場では、予防検診の受付をしてました。平成20年から特定健康診査、メタボに着目した新しい健診がはじまりました。年一回は受診して健康に留意しましょう。50歳すぎれば異常なしの人は少ないです。皆さん老後は、健康と年金がたよりですよ〜。 次は、私の母親が太極拳をやってまして、その講師の石松(迫田)敦子さんにお願いします。

石松(迫田)敦子です (3年6組)
木野智代さんからバトンを渡されて、高校在学中は陸上部でリレーも走っていたものですから、つい昔の癖で?受け取ってしまいました。でもメッセージ発信のチャンスをいただき、智代さんありがとうございます。
今思えばドングリのせいくらべなのに宮田出身の私が「いなかー!」と言っていた若宮に嫁いでかれこれ25年、以来義兄経営の自動車整備工場で主人共々なんとか仲良く働いています。子供は息子が2人、娘が1人です。智代さんが紹介してくださった太極拳は趣味が昂じて指導員資格をもらったという程度です。ちょうど主人と出会う少し前からの付き合いなので、もう30年になりますが、ホントに太極拳が好きなのと周囲の協力で続けることが出来たと思っています。私自身の心身共の健康に役に立っており、ライフワークと言っては大げさですけれども「死ぬまで続けるけん。」と内外にアピールしています。智代さんのお母さんも100歳まで続けると言っておられました。まさに生涯スポーツと呼ぶのにふさわしいかも知れません。グラウンドでハードルをひょいひょい越えていた体力は遥か昔になくなってしまいましたが、これからはスローペースでやっていこうと決めています。この年明けに、ようやく末の娘が成人式を迎えます。とはいうものの、まだあと2年はしっかりスネをかじられるのでまだまだ働かなくてはなりませんが。将来はできれば独身の時のように太極拳三昧しつつ、「いなかぁー!」の町おこしにも今よりもう少し協力しながら元気に楽しく暮らしたいと思います。実は今、宮若市の観光ガイドボランティア養成講座というのに参加させてもらっているのですが、我がふるさとを改めて見直す良い機会になっています。市内に住んでいながら本当に知らなかったことが多くて、恥ずかしいくらいです。宮若市には竹原古墳からトヨタ九州まで新旧取りまぜて見る所が沢山ありますので、ぜひ皆さんも一度回ってみてください。私もガイド出来るように頑張って勉強しておきますから。
以上が私の近況報告です。次にバトンタッチする方は、工場のほうもお世話になっている花田公一さんです。よろしくお願いします。

花田 公一です (3年3組)
石松さんからバトンを受け取りました花田です。妻と子供2人に恵まれ、上の子が今年やっと大学3年になりました。幸いなことに、家族が分かれることなく生活しています。
私自身は、大学を卒業してから現在の会社で30年以上働き続けています。最初の20年間は上下水道処理場の制御関係の設計、現在は工場の生産管理を行っています。その間に東京勤務、松山での単身赴任等を経て、現在は自宅から通勤しています。
皆さんのメッセージを読み返していると、“孫”、“年金”、“病気“が話題に上がるようになり、いつの間にか熟年の仲間入りをしたことを感じさせられました。
会社に残れる期間も10年弱となり、充実した老後(人生の楽園)を夢見て、親から引き継いだ広めの土地で、”趣味の園芸“を始めました。果樹とか野菜など作ったことが無かった為「本」と「インターネット」そして「近所のおじさんたち」が、いろんな事を教えてくれます。
数年前植えたクヌギ200本は、そろそろカブトムシが寄ってきそうな大きさとなりました。(一緒に捕りに行く予定の、孫の準備は出来ていませんが…)
妻がリクエストした野菜以外に、面白そうなものを見つけては挑戦しています。ズッキーニ、ヤーコン、バターナッツは家族に不評でした。収穫迄4年かかるコンニャクも、加工する時に台所を占有する為、妻には大不評でしたが、芋がコンニャクに形を変える時の緊張感が忘れられず、今年も芋作りからに挑戦しています。
これからもいろんなことに挑戦していきたいと考えています。
4月より選挙管理委員会のお手伝いをすることになりました。近所の方は投票所でお会いしましょう!
次は娘の担任でもある、齋藤武俊君にお願いします。

齋藤 武俊です (3年8組)
大学入試、日本史の問題に自分たちの見てきた(東京オリンピック・東海道新幹線開通・大阪万博・消費税3%など)ことが出題されるようになった。年齢を考えると当たり前のことだが、ショックだ。(教壇にたって歴史を教えているからか?)
家庭においても同じだ。今年のGWは初めてどこにも行かなかった。庭の草取りと夫婦二人での映画。それはそれでよいのだが。「子どもとどこかに!」だったはずが、子ども達はそれぞれ就職・大学と自分たちのことを。
“親と一緒に”という時間はなくなっていくのだろう。互いを「おとうさん」「おかあさん」とやはりよぶのかな〜?
「さて、どうする」「何をしよう」。退職をしたら何をしようは考えていたのだが。ただひたすらに酒を飲みつつ自問中 ……。若き日に戻るのもいいか。  陽君! 君はどうする。
次は、波止 陽君にお願いします。

波止 陽(なみとめ たかし)です (3年2組)  宮若市脇田在住
同窓生の皆さん、お久しぶりです。3年生の体育祭の打ち上げで、我が新谷学級は先生に黙って福智山に登りました。覚えてくださっている級友はいらっしゃいますでしょうか。下駄履きで登った波止です。鞍高の売店で購入した下駄でしたが、割れずに立派に私の足を守ってくれました。
私の近況ですが、今年4月、小竹南小学校より地元の若宮小学校に異動し、毎日交通指導で交差点等4ヵ所順番に立っています。皆さんからよく指摘された田舎の代名詞「若宮」、さらに「脇田」で育った私にとっては、未だに恥ずかしさもあるのですが、小・中学生や地域の方と挨拶を交わすのを楽しみに頑張っています。これから寒さが本格化するのがちょっと不安です。
私生活では、満89歳の父が今年の4月中旬より入院し、仕事が終わってできるだけ顔を出そうと夫婦で努めているところです。昨年6月に娘が東京に嫁ぎ、息子は大学生、父と我々夫婦3人で日々過ごしていただけに父の入院で自宅は寂しくなりました。病気が治癒する可能性の無い病気ですが、今は食事をほとんど完食し、顔色も良く、この状態ができるだけ長く続いて欲しいと願っています。
自分の事ばかり書いてしまいました。齋藤武敏君が、退職後「さて、どうする。」「何をしよう。」というような年寄りじみたことを書いていたために、かぶらないよう努力しました。武敏!ごめん!
私と同じ脇田在住の大村昭彦君、いよいよ君の出番です。いやと言えないリレーメッセージ、次は、大村昭彦くんにお願いします。

大村 昭彦です (3年4組)  宮若市脇田在住
波止君から、バトンをうけました。自宅が近所ということですが、何の前触れも無く回ってきて今、心を整えているところです。さて、遙か昔の高校時代の記憶をたどり思い出すのは、剣道部の猛練習や県大会ベスト8で臨んだ玉竜旗大会での3回戦敗退等々、青春のほろ苦くも充実していた思い出です。
また、体育祭で学級の応援をするための櫓を、放課後残って遅くまで作りました。そして当日は、全員で櫓に乗って力の限り応援したことを覚えています。
さて、私の近況は、宮田東小学校に赴任して2年目を迎えました。児童の人数は、全校で222名で、特別支援学級を入れて11学級です。教員生活31年目になり、退職まで残り3年を切りました。もう一踏ん張り、ねじを巻き直しているところです。
長男、長女が大学生、末っ子(次男)が鞍高1年生ですので、まだまだ安閑としておられません。
それから健康を維持するためと趣味をもつために、今年は近くの山に登るようにしました。PTA総会の折にも、「まずは靴からそろえる」と宣言してしまったものですから、さあ大変。 一応トレッキングシューズを購入しました。 現在まで標高300メートル級の山(丘)を3つ程制覇しました。結構きつかったです。
思いつくままに書いてしまいましたが、鞍高のスローガン「たくましき前進者たれ」は、現在も言葉としてや精神としても受け継がれています。うれしいことです。
そろそろバトンを渡しましょう。小方 幸弘君、電話で以前話しましたが、長らく会っていません、次のリレーメッセージをよろしく。

小方 幸弘です (3年2組)
2012年12月 掲載予定です