ようこそ 鞍陵25回のリレーメッセージへ

Bルート
中川(福原)祥子です (3年4組)
25回生のみなさん、お変わりなくお元気でお過ごしでしょうか?
私達の鞍陵祭当番の年から、もう2年が過ぎました。月日の経つのを早く感じます。今年は未年で年女でしたが、今度干支が一回りするときは、もう還暦です。赤い帽子を被せられ、赤い半纏を着せられるのでしょうか。考えただけでもぞっとします。
私は、毎日元気のよい子供達に囲まれ、子供達からパワーをもらいながら仕事をしています。(先日、勤務年数を見て、ビックリしました。なんと、4半世紀も経っているんです。)
先日、2年生の男の子が、「ねぇ、ねぇ、おばあちゃん・・・。」と駆け寄り、私の顔に気づいて「あっ!」と口を押さえて、バツの悪そうな顔をしていました。以前は、「ねぇ、ねぇ、お母さん。」とは、よく言われたもので、「学校の中では、子供達の母親なんだ。」と思い、気にならなかったのですが・・・。さすがに"おばあちゃん"は、ちょっとショックでした。でも、その子の祖母は、52歳でしたのでそう呼ばれるのも「しょうがないなぁ。」と、納得しました。
家では、夫と舅と姑と毎日変化のない生活ですが、仕事では、日々何があるか予想もたたないくらい変化のある楽しい毎日を過ごさせてもらっています。
気持ちだけは、いつまでも若いつもりです。みなさん、おたがいにがんばりましょう。
次は、森本やよいさんに近況を知らせてもらえたらと思っています。よろしくお願いします

森本(田丸)やよいです (3年4組)
昨日までの長雨が嘘かのように今日は朝からいい天気です。梅雨も中休みのようです。さて、全国津々浦々でご活躍の25回生の皆さんその後お変わりございませんでしょうか?あの暑い夏からあっという間にもう3年今は静かに五十路を迎える準備をしています。
私事ですが今年は年明け早々今までに味わった事もないような、肩こり・頭痛・手の痺れに悩まされ字も書けない程でした。何が原因かは結局わからないままでしたが病院や整体に通いながらリハビリに精を出しやっと家事が出来る様に回復しました。それを機に全く運動音痴の私でしたが、体力づくりが基本だと痛感し毎日早朝5時から6時半までのウォーキングと週に1回のジム通いに専念して爽やかな汗をかいています。4月から始めて3ヵ月になります。朝のウォーキングは最高です。清々しい空気を胸一杯に吸いながら有酸素運動。夏大好きな私はこの季節何時に寝ても夜明けと共に目覚めてしまうのです。(決して年のせいではありません!!)その日の気分で気の向くままに歩いています。なんじゃもんじゃの白い花、夜宮公園の菖蒲や紫陽花、九工大の中庭に咲く香り高いくちなしの花、小倉城のお濠の睡蓮どの花も昼間見るのとは全然ちがって静寂の中、色鮮やかにみえます。春から夏にかけて移りゆく花暦、自然の恵みに感謝しています。お陰様で今は肩こりも頭痛も手のしびれもすっかりなくなり心身共に元気です。毎日2万歩位歩いています。歩くのが楽しくなってきました。体型はあまりかわらないのですが体脂肪22。ぷよぷよのお腹がちょっぴり引き締まった様な気がしています。9月にはいよいよ50代突入です。より若く心に体に磨きをかけて行きたいと思っています。さぁ、次は誰にバトンを渡そうかな?大森孝人・智子夫妻ふたりでジャンケン負けた方にお願いします。

大森(伊野)智子です (3年5組)
ごぶさたしています。近況報告をします。
8月10日で50歳になりました。3人の子供も大学生になり、自分自身の自由な時間が増えるはずなのですが、なぜか働く時間が増えたような気がします。自営なので、雑用係ですが、8時頃会社に出て18時頃帰宅という日々を送っています。うちの家族は主人を筆頭にわが道をいく人ばかりなので、育児も終わり、子供からの自立を含め、私もわが道を模索中です。
まず、余暇は自分のために時間を使おうと思い、50の手習いとして、東真須美さんに書道を習いに行っています。明るく前向きな東先生は人生の師でもあるような気がします。
最後に、主人の近況報告も勝手にします。
とてもガリガリに痩せています。みんなこの年になると、太るのにどうしてでしょうか、外食すると、とてもよく食べるんです・・・?アルコールは毎日欠かしたことはありません。自他共に認める"アル中"です。先輩がアルコール依存症で入院している病院へ見学に行きました。そこから通勤しようと本気で考えているようです。先輩は大きな悩みを心に抱えているのですが、主人の原因はなにかな・・・?
昨日も"オール・アバウト・マイ・マザー"をみたあと主人から"君もこのように寛大で寛容になりなさい"と言われました。いろいろ悩んでしまうこの頃です。
次は武内功、景子夫妻のふたりでジャンケンに勝ったほうにお願いします。

武内 功です (3年8組)
リレーメッセージの順番が回ってきていたことをすっかり忘れていました。東さんからの催促で思い出しました。すみません! (夫婦でお互いに押し付け合ったのですが、結局私の負け。)
さて、まもなく51才になろうとする男の愚痴をこぼしても仕方がないので、6月7日直方での井上陽水コンサートの話でもしましょう。
陽水が直方でコンサートをやると聞いて思い出したのは、4年前の鞍陵祭。前夜祭に陽水を呼ぼうと企てたが、果たせなかった事です。陽水の弁によると、田川に4回、飯塚に2回来たとかで、どうやら、2年前に直方出身のお母さんを亡くしたこともあって、今回の直方でのコンサートが実現した模様。
お馴染みのナンバーの間に、リップサービスも含め直方の思い出や曲を作ったいきさつなど、結構饒舌に独特のユーモアを交えて語っていました。会場は、大方50歳以上の聴衆でいっぱい。田川から来た同窓生のにぎやかさもあって、大いに盛り上がりました。こちらも大感激!
思うに、陽水の初期の歌のルーツは確かに筑豊なのです。 最近、西鉄バスのCMで陽水が歌っているオリジナル曲「歌に誘われて」の曲想も、彼が幼い時分お母さんに連れられて利用した、彦山川の土手を走る田川〜直方の西鉄バスにあるということを理解しました。
かく言う私の陽水体験といえば、最初にコンサートに行ったのは大学1年の時。当時大学の放送研究会に所属し、仲間に連れられて活動を兼ねて九段会館に行きました。『傘がない』をその時初めて聴いたのです。そして、スマッシュイレブンのあのアンドレカンドレが陽水であることを初めて知りました。
その後は何ということもなかったけれど、なんと妻が当時からのファンで、大いに影響されてしまったわけです。白状すると、今や私のカラオケの持ち歌は陽水が最も多いのです。夫婦で車の中でいつも聴いて、子供から何度ブーイングされたことでしょう。あの詩的なことば、独特の声色、ビジュアル系とは口が裂けても言えないけれど(失礼!)、やはり陽水は不世出のエンターテナーではないかと思うのです。こういう人が地元にきて、生の歌を聴かせてくれることは筑豊の人間として大きな喜びです。
4年前、前夜祭に呼ばなくてよかったと思う。なぜなら、裏方として聴き過ごすにはあまりにも口惜しいから。と、まぁ、このようなコンサートはともかくとして、近くにシネコンもでき夫婦50割引をおおいに活用したりして余暇を楽しんでいます。
さて、次のメッセージは、毎年鞍陵祭に大阪から来てくれる仲嶋君にお願いします。

仲嶋 芳介です (3年6組)
さる11月19日に近畿鞍陵会がありました。近畿地区の21回と25回が当番ということでこの春より、役員をさせてもらっていました。
しかし、事前の準備段階では参加者が思ったように集まらず、焦りを感じていました。ところが、東京鞍陵会で大阪の情報を聞いた25回の数名の方が大阪へ来てくれるとの連絡を受けました。この報告を直前の実行委員会で先輩方に伝えたところ25回の結束に感銘してくれまして、各回生への参加を更に呼びかけようという動きになり、その結果、過去最高の参加者を得ることが出来ました。
あらためまして、東京より参加してくれました小峠丈二君、植木順子さん、又、予定して仕事の都合で来れなくなった原行雄君、斎藤省三君、この場を借りましてお礼を申し上げます。
昨年の秋に大阪に単身赴任となり、飲み友達となった山本博喜君ですが、近畿25回の担当として直前まで僕とともに準備をしていましたが、人事異動で直方に10月に戻ってしまいました。
でも、なんと当日、直方より参加して懇親会の司会を勤めてくれました。本当にご苦労様でした。近畿の25回の仲間、熊崎学君、外村律子さん、杉田早苗さん、忙しい中、ありがとうございました。あらためて、共に鞍高で過ごした日々で生まれた連帯感に感動しました。
50歳を過ぎて、自分自身で感じることは、過ぎ去って忘れつつある、大人になる手前のあの頃にうまく語れなかった言葉や伝え忘れた思いなどにもう一度、向かい合ってみようかということ。
長い低迷の時代をようやく終わりに近づいて、元気なおじさん、おばさんの時代が来つつあります。雑誌のレオンやニキータを読んで人生の後半を若い感性で過ごせたら、もっと違った世界があるかもしれませんね。
次のリレーは直方弁の素晴らしさを近畿にひろめてくれた山本博喜君にお願いします。今度、おいしいお米を食べさせてください。

山本 博喜です (3年5組)
庭の草、畑の草を取っても取ってもまたすぐ伸びてきて、草との戦いの季節がやって来ました。少々ムカツキ気味の今日この頃ですが、皆さんお元気ですか?
本当に月日の経つのは早いもので、大坂の単身赴任より直方に帰任して早や9ヶ月が過ぎました。今思うと大坂の一年間もアッという間でしたが、帰って来てからの方が更に早く感じます。大坂時代が遠〜い遠〜い昔に思えて仕方ありません・・・・!
2年前の10月、バタバタと稲刈りを済ませ、そのまま大坂の単身赴任生活へ!炊事・洗濯など全くしたこともなく、最初は慣れない仕事と生活に全く余裕がありませんでした。そんな時、近畿鞍陵祭の幹事(22回生で、地元頓野の友達のお兄さん)さんより、何度も近畿鞍陵祭への誘いの電話を受け、11月の下旬、結局一人で出かけることにしました。でも、25回生は誰も来ないし、知ってる人もいないだろうし、どうしよう・・!守口駅を降りてから、会場のホテルまでの憂鬱な気分を今でも鮮明に覚えています。でも、そこは鞍陵祭!地元の先輩や後輩との思わぬ出会いにスッカリ打ち解けて、帰りには幹事の22〜24回生と一緒に“2次会”に参加しておりました・・・!それからは予想通り、次回の当番幹事が21回生と供に廻ってくることに・・・・!ナンキン(仲嶋くん)と二人で、事務局の人達や21回生の人達と何度も打合せ(飲みごと)をやりました!(楽しい思い出ばかりです)最後は、ナンキンに全て任せて私は直方へ帰って来ました。ナンキンごめんネ!本当にお疲れ様でした!昨年の近畿鞍陵祭とっても楽しかったですネ!今考えると、大坂時代の方が今より充実してたかも・・・・?ナンキン、今年も近畿鞍陵祭のお世話ヨロシクお願いします。昨年参加の皆さんも参加出来なかった方達もご協力ヨロシクお願いします。私も出来る限りの協力をしたいと思います。
次のリレーは‘禎ちゃん先生’こと、柴田禎二君にお願いします!禎ちゃん見てる?よろしくネ!

柴田 禎二です (3年5組)
『あれから何十年が過ぎたのだろうか・・・?校門を抜ける息子の後姿に若き日の自分を重ねながらこの原稿を書いています。
若き日、今は亡き恩師、石橋先生から「柴田。お前、教師になれ!」と言われた時、「絶対に教師にはなりません!」と言い切った私なのに、なぜか現在バリバリ??の教師をしています。
考えてみると、恩師は非常に私のことをよく理解してくれていたのだと、教師をしてみてつくづく感じます。はたして、私はこの恩師のように生徒一人ひとりを理解してしるのだろうかと、反省の毎日です。
これからでも遅くはないですよね。
残り少ない教師生活で、私に出来る最善の努力を行いたいと思っています!!でも有言不実行にならないよう、皆さんも祈っておいて下さいね。
確かな友情に支えられながら、52歳がんばりま〜す』
ちなみにこの原稿は、退職するまでしっかり頑張るようにと、愛する妻が書いてくれました。もうすぐ退職、熟年離婚とならないように妻を大切にしたいと思います。
次は事務局の本浪君にお願いしたいと思います。モッチャンよろしく!

本浪 章生です (3年5組)
今年から名簿管理を仰せつかり、「宛先不明返送先」になった本浪です。いきなり柴田貞ちゃんから指名を受け面食らってしまいましたが、ご近所のよしみで受けることにしました。でも貞ちゃん自身が書いたのは3行だけ?それっちインケチやん!!と思いながら、石橋先生が貞ちゃんに先生になることをすすめたことを知り、あらためて先生の偉大さに気づきました。実は、僕も石橋先生にすすめられた職業に就いているんです。3年の進路相談のとき、電子工学を専攻したいと言ったところ「男ならダムでも作ったらどうだ」と指導され、優柔不断な僕は建設関係に進むことに決めました。大学で建築を専攻し建設会社(建築)に3年いましたが、一念発起し直方市役所に入りました。それも、土木技師として・・・、ダムは作りませんでしたが道路は作りました。石橋先生は生徒の特性を見抜く達人だったのか、それとも世紀の予言者だったのか?いずれにせよ今の僕があるのは先生のおかげ。感謝です!
今はりっぱな(?)土木技師として、中心市街地の再生を図るため直方駅前の須崎町区画整理と、駅舎移転を伴う駅前広場の整備を担当しています。「え、駅舎移転?」と驚かれた方もいらっしゃるでしょうが、駅前広場を整備するには今の駅舎がどうしても支障になり、止むを得ずちょっと横に移転してもらうことになりました。小振りですがバリアフリー対応の2階建駅舎ができる予定です。そして駅舎跡地に西鉄バスもJRバスもタクシーも入る交通ロータリーができ、乗換えが便利になります。
現在の駅舎は、我々の高校時代からもずいぶん様変わりしていることは確かですが、明治43年の建物であり、当時の面影も少しは残っているため、残せるものがあれば残したいと知恵を絞っている状況です。
高校時代といえば、1年のときはまだ汽車が走ってましたよね。そのころ、汽車がディーゼルに変わるということで、汽車の音を録音しておこうと、深夜だったか夜明けだったか、よく覚えていませんが、暗い中を東裕二君と線路際まで行った記憶があります。(東君、間違いだったらゴメンね)まだ、テープ残っているかな?写真も撮ったような・・・?
ということで、次は東裕二君にメッセージをお願いしたいと思います。よろしく。

東 裕二です (3年5組)
11月1日、午後1時過ぎの会議中の事でした。突如携帯が鳴り出し(携帯は何時も突如鳴る物ですが・・・)、 それは『本浪ですが・・・ 』という言葉から始って、そして『夜中に汽車の音を録音しに行った事を覚えとらんね?』、という常人の想像を遥かに越えた質問へと続きました。『あの時に何が・・・?』と、一瞬にして36年余りの月日が攪拌された後、『そうだったけ?』と答えるしかない私がいました。本浪君そうなのです。ご免なさい、残念ながら記憶にありません。言われてみれば行ったような気もしますが、行ってないような気もします。老化現象の所為なのか、夜中の汽車は歴史の闇の彼方に消えたようです。
私の近況に少し触れると、外資系企業にいる事もあって3ヶ月に1度くらい海外に行く機会があります。US、中国、シンガポール等が多いのですが、この 10月にインドのデリーとバンガロールに行きました。デリーは39度、バンガロールは24度で全く違った土地柄でしたが、牛や浮浪者が道路や地下鉄やビルの建設ラッシュと同居している姿は同じで、もしかしたら、(記憶が無かったはずなのですが)30数年前の高度経済成長期の日本と重複した風景なのかもしれません。(でも道路に牛はいませんでしたね。)という事は、ITエンジニアの育成で成功したインドの30年後の将来は、今の日本以上に素晴らしい先進国になっている可能性もあるでしょう。反対に今の日本の30年後の将来は・・・?と考えると微妙です。色んなコメントがあるでしょうが、我々の子や孫の世代の健全な良識に大いに期待したいと思っています。
では、この辺で筆をおります。次は面倒見の良い、原行雄君にメッセージをお願いします。

原 行雄です (3年7組)
面倒見の良い原君だってぇ?違います。あれは、樫本君に拉致されたからです。
渋谷の駅から246号線に沿って西へ行くと、南平台町という所へ行きます。地名の”谷”から”台”に向う訳ですから、ちょっとした上り坂です。
優秀な成績で高校を卒業後、パチンコ・麻雀に類まれなる能力を発揮し、僅か2年の後、日本大学理工学部建築学科に入学しました。残念ながら、4年で卒業をしましたが、皆さん同様オイルショックで、就職はありません。新聞の5行広告で就職。意気揚々、高校時代に追いかけていた女性に『就職したよ!』と電話すると『私、結婚するの』と言うではありませんか・・。その後、その会社に2年居ましたが、仲間で独立。作った会社が、南平台町にあった訳です。
坂道を登っていくと、向こうから台車をガラガラとデカイ体の男が・・樫本君です。『おぉ、、はらぁ、、今度、東京鞍陵会があるから来い!』で、東京鞍陵会に出る事になりました。ほどなく『はらぁ、、俺、成田に転勤。お前頼むな!』で、同期の誰が東京に居るかも分からずに、学年幹事。以来、何年になるかなぁ?何故か、ずーーっとやってます。まぁ、、女性幹事連に助けられたところが大きかったね。特に、植木(山本)順子さんの力?は、凄いものが有りました。なんでも博多に行ってしまうらしい、、。
最近、ブログをやってまして、撫尾(北村)巨津子さんのブログにリンクを貼らせてもらっています。この年齢になると、知っておかないといけないような事ばかり。勉強になります。次は撫尾さんにお願いします。

撫尾(北村)巨津子です (3年4組)
原行雄さんからご指名いただいた撫尾巨津子(うつおみつこ)です。いつもご無沙汰ばかりで本当に申しわけありません。私は今、佐賀市の浄土真宗寺院でお寺のオバサンをしています。
さて、原さんとは高校在学中、無縁。しかも今、何故、東京と佐賀の接点があるのか・・・と申しますと、ブログとSNSです。きっかけは、数年前、事務局が同級生にメール配信してくださった私のメアド変更通知。それを見た松井(中村)慈美さんが、卒業以来初めて連絡をくれたことでした。慈美さんが関東の同窓会で宣伝してくれたのですね、私のブログのことを。それから、関東在住同級生との輪が広がりました。娘の引っ越し手伝いに上京した折は、皆さんにお目にかかれ、楽しいひとときを過ごす機会にも恵まれました。
それにしても、幼稚園から一緒だった榎本(平田)周子さんの急逝は、大変ショックでした。彼女の逝去時に立ち合った同級生を中心に、毎年、周子さんを偲んで集まっています。周子さんのお手回しだと感謝しています。
ところで、私「お寺は何のためにあるのですか?」と言う本を出版。拙ブログ「お寺のオバサンのひとりごと」共々、大好きな仏教の宣伝をさせていただいているところです。
では次は、きっかけを作ってくださった松井慈美さんにお願いします。

文中で紹介されたブログ「お寺のオバサンのひとりごと」は、こちら・・・

松井(中村)慈美です。 (3年5組)
撫尾巨津子さんからご指名いただいた松井(中村)慈美です。
巨津子さんとは鞍高帰り道、御館橋でよく笑い転げましたね〜何がおかしかったのでしょうか?
原君とは、高校在学中、私も無縁。でも関東の集まろう会で、すっかり友達。昨年、息子が就職内定した時、原君から「どうも永富君と同じ会社だから、よろしくとお願いしたら・・・」とメール。
私「いや〜永富君とは同じクラスになってないし・・・息子は・・・」「だから、頼むんでしょ!」と原君。
ここで、思い切って、永富君、未熟者の息子ですが〜よろしくお願いします。もし会ったら声でもかけて下さい。
次は離れてても、黙ってても、何かが通じてる 須藤(渡辺)留理さん、リレーのバトン、受け取ってね〜

須藤(渡辺)留理です (3年5組)
松井慈美(中村)さんからバトンを受け継いだ須藤留理(渡辺)です。
人付き合いの苦手な私をいつも優しく誘ってくださる植木順子さんと慈美さんの御蔭で、鞍陵祭に今回初めて出席しました。
すずかけの風を聞きつつ・・・校門付近には随分小さく萎んでしまったすずかけ、プラタナスの木が二本残るだけです。教室の中庭に数本並んでいた、当時いつも眺めていたメタセコイヤの木も見当たらず、少し淋しく、長い時が流れていったことを実感しました。
約37年前の卒業以来なので、当時の同窓生の面影と今とを重ね合わせるのに時間を要しました。しかし、鞍陵祭の帰り、暗い夜道を友と話しながら歩いて、鞍高の坂を下り、御館橋を登る「動き」というか「リズム」の中に、不思議と昔の感覚を生き生きと取り戻すものがありました。
そして秋も深まり冬の初めになって、もう一度鞍高を訪ねました。
校庭のあちこちの卒業記念樹の大きなプラタナスの木が私を迎え入れてくれました。運動場の近くにメタセコイヤの木も見つけました。どの木も美しく色づいています。
一時間目の授業中で多くの生徒がいるはずなのに、とても静かです。自立性を重んじる開放的な空気に満ちています。何も変わっていない、そのことに気づきながら、私は手の掌よりも大きな落ち葉を拾い集めました。
さて次は、殆どお会いすることはありませんが、すぐご近所の松尾武俊さんにお願いします。

松尾 武俊です (3年5組)
渡辺留理さんからのリレーメッッセージにより、わたくし松尾武俊の近況をご報告いたします。
今年で56歳、自分自身の人生について色々と感じる今日この頃です。人生色々とは申しますが、我が人生も今思えば結構「波乱万丈!」、大役の42歳の時に突然脳大動脈瘤破裂とクモ膜下出血により意識不明となり、緊急手術によりまさに九死に一生を得、医者が驚くほど何の麻痺も無く約2ヶ月の入院の後無事退院。48歳で勤めていた叔父の会社が倒産。約6ヶ月の無職の時期を過ごし、その後の6ヶ月は失業保険をもらいながらコンピューター関係の学校に通い卒業後、就職活動を行ないましたが、なかなか思うようにいかず、ひょんな事で直方市の学校用務員の職に就きました。勤務先は、福地小学校・・・そこで教員として勤務していた2組の旧姓宮近玲子さんと出会い、8組の旧姓宮崎多賀子さんが給食の指導員として指導に来た時は、まさに25回同窓会のようでした。用務員としての2年間は、自分にとって非常に楽しい時間でした。学校の中には2年間で製作したいろんなものが今でも学校に残っています。またその時にお世話になった校長先生とは、今でも連絡を取り合っております。その後2年間の勤務を経て、現在では以前の鉄工所時代の取引相手であった会社にお世話になっております。
用務員の時、5年生の野外キャンプのお手伝いをさせて頂いた関係で、退職後も毎年野外活動のお手伝いをさせて頂いております。主にキャンプファイヤーの時には、私の好きな歌『我が良き友よ』の歌詞の中の「子供相手に人の道、人生を説く男」という感じでしょうか?小学校の卒業生と会うと、今でも「あっ、松尾先生だ」と寄ってきてくれます。「先生じゃないよ」と言うのですが、この子らの心に残っていると思うと、この上なく嬉しく感じます。
私の家族のことですが、縁あって妻は東北の宮城県から私のところへ来てくれて、こんな波乱に満ちた人生を呆れもせずについて来てくれております。子供は、21歳の長女、19歳の長男、17歳の次女の子宝に恵まれております。まず第一に妻に感謝、第二に家族に、そして今まで出会ったすべての人に感謝したいと思います。今後も座右の銘である「一期一会」という言葉を心に生活していきたいと思います。
毎年の鞍陵祭では毎回、懐かしい顔が見れるのを楽しみにしております。まだ鞍陵祭に参加されてない方、是非参加して、昔話でもやりましょう。友達ってほんとにいいもんだと再確認をしようではありませんか。文才の無い私の書いた近況では、表現の未熟さは否めませんが、鞍陵際当日会って話しましょう。
次のリレーメッセ−ジは、内田吉彦君にお願いいたします。

多忙な内田吉彦さんのピンチヒッターを山上勉さんにお願いしました。

山上 勉です (3年6組)
一升亭 呑介(いっしょうてい のみすけ) こと 本名:山上 勉です。
ばかばかしいお噂で失礼いたします。
 「初会(しょかい)」「裏を返す」「馴染み」「居残り」「付き馬」なんて言っても、おわかりにならない方が多いと思います。落語で廓話という昔の遊郭にまつわる噺に出てくる言葉です。遊郭など知らない世代の私ですが、落語を聴いてそれらの意味がわかるようになりました。落語をこよなく愛すようになったのは、学生時代に三遊亭金馬(三代目)の「居酒屋」を聴いてから。小僧の甲高い声と酔客のドスのきいた声の演じ分けや、酔いが進むとともに呂律が回らなくなり、小僧に絡んでいく様子が実に面白くて、それは見事な名人芸です。
 本格的に落語の研究を始めたのは30年ほど前。衛星放送の落語番組を少しずつ録画していたら、いつの間にかビデオテープやDVDが膨大な量となり、一端のコレクターになってしまいました。同じネタでも東京と上方で違いがあったり、以前つまらないと思っていた噺家がいつのまにか上手くなって味のあるいい噺をするようになったり、いろいろと発見もあって楽しいものです。今は亡き名人、志ん生(五代目)文楽(八代目)円生(六代目)の噺のビデオは貴重な代物で、家宝にしようと考えています。2001年10月に古今亭志ん朝が他界したことはこの上ない悲しみでした。「火焔太鼓」「文七元結」「お直し」「百年目」など珠玉の名演のDVDを観ては在りし日の志ん朝を偲んでいます。落語研究が高じて、15年ほど前から見様見真似で覚えた落語を自ら演じるようにもなり、ときどき依頼に応じて自己流の古典落語を披露しています。ちなみに高座名は「一升亭呑介」。
 東京にいる楽しみは、身近に寄席があること。国立演芸場、上野や浅草の寄席などに顔を出しているうちに、最近は生活のすべてが落語っぽくなってしまいました。生活様式が変わり、古きよきものがだんだん失われていく今日、落語や歌舞伎などの古典芸能を保ち続けていくべきだと思い、これからも趣味の域で落語とつき合っていこうと思っています。
 まだまだお話したいことはいっぱいありますが、お後がよろしいようで。
 飲み仲間、話仲間としてつき合いの長い那須繁君にバトンを渡します。那須先生よろしく。

那須 繁です (3年7組)
・・・  セ ピ ア 色 の 直 方  ・・・
いきなりですが、ドンゴロスって覚えてる?
〜 聞き覚えがあるなあ? 〜
そうそう、あれあれ!
では、ドンゴロスと言えば、何を思い出します?
〜 障害物競走を思い出したそこのあなた! 〜
あなたの頭の中はもうセピア色!

先日、直方の谷尾美術館で「セピア色の直方 〜アルバムの中の故郷〜」という写真展が開かれていることを知り、永末秀雄君と見に行ってきました。明治・大正から昭和40年代までの直方の街並みやそこで暮らす人々を撮った写真展で、たいへん懐かしいひと時を過ごすことができました。多賀神社のお祭り、人々で賑わう古町商店街、夕暮れに映える慈母の鐘、もうもうと煙をあげながら走る貨物機関車・・・。
練炭に火をつけるときに七輪の上にのっけていた小さな煙突のようなもの、あれってなんて言いましたっけ?
どの写真の中でも、人々が活き活きと暮らしていました。何よりも印象的だったのは、街に子供たちの笑顔が溢れてること! 服装は粗末でも、子供も大人もみんな顔が輝いている! どうしたら、あんないい顔ができるんだろうか? 吸い寄せられるように、心はあの時代にタイムスリップしていました。
「そんなことを懐かしがる歳になったんだよ」という声が聞えてきそうですね。
しかし、ひとしきりセピア色の思い出を懐かしんだあと、「日本は本当に幸せな国になったんだろうか?」いう疑問もよぎりました。あの頃はみんな、日本という国にどんな未来を夢見ていたのでしょうか?
そんなことを書き出すときりがないので、この続きは、集まろう会でお酒でも飲みながら・・・。
このリレーコーナーも男子が続いているようですので、このあたりで女子にバトンタッチ。
次回は、高校時代からの大ファンで、歳を重ねるごとに魅力を増す入江の敦ちゃん、お願い!

入江(長山)敦子です (3年8組)
「ときめく会」の皆さんこんにちは!那須君、“おむすび”はそんなに美味しかったですか?
“おむすび”の効果は絶大ですね!過分なお褒めの言葉ありがとうございます。
高校時代は運動音痴で何をしても鈍くさかった私が、宮田の山の中に嫁ぎ、たけのこ山をお猿のように駆け回ったことで、自然に身に付いたのでしょう、25回で初めて六ヶ岳に登った時、思いがけず、先頭にたって楽に登ることができました。お調子者の私は、その時以来すっかり「山好き」になりきってしまい、それから毎年、福智山、鷹取山、鶴見岳に登っています。
こうお話しすると皆さんは、大きなリュックを背負っている山ガール?の様な私を想像されるかと思いますが、実は違うのです。私の山登りは、25回の“山友”がいないと登れない山登りなのです!というのも、4年程前から、腰痛で重い物が持てなくなりました。でも山には登りたい!そこで、25回の優しい山友のみんなにお願いして、“おむすび”を作るからと荷物を持って頂き、軽装備の登山が実現!おかげで現在もまだ登山を続けることができているのです。
登山には、さまざまな楽しみがあります。その中の一つが“おむすび”。汗をかいた身体に頂上での心地良い風、眼下に広がる360度の景色を見下ろして頂く“おむすび”はどんなでこぼこの“おむすび”でも「美味しいね」って思わず言ってしまう程、特別な味がするのです。那須君もでこぼこ“おむすび”を食べた一人。(荷物を持って頂いた記憶は・・・ですが。)
そして、山野草。お花屋さんで売っているお花ももちろん好きですが、山に咲いているお花は、それはそれはかわいいのです。山に行く前に、時季と場所から咲いていそうなお花を本で調べておきます。珍しいお花がある時は、咲いていればいいなぁと期待して山へ向かいますが、なかなか出会う事は難しいです。うっかり見落としてしまいそうな足下のお花、ほのかな香り誘われて気づくお花、風に乗って花びらがひらひら舞い降りて来て気づくお花、だからこそ出会ったときの嬉しさは格別です。ちなみに、今年の五月の福智山では、紫のおだまき、ほうちゃく草、一人静に出会いました。
ときめく会の皆さん!山に登っていい空気を吸って、楽しいおしゃべりそして、ちいさな発見をしませんか?もちろん“おむすび”もご一緒に!高校時代から40年の年月を重ねた今、また高校時代のお友達といろんな事を語り、支え合っていけること幸せな事だと思っています。25回は本当に仲良しだね(鞍陵会で評判です)と言われることは、私の自慢の一つです。次は、今は私の鞍陵会のお仕事のパートナーでもあり、福智山の先生、『きょんちゃん』事、内田君にバトンを渡します。

内田 清巳です (3年2組)
前回の波止君のリレーメッセージに「3年生の体育祭の打ち上げで、我が新谷学級は先生に黙って福智山に登りました。下駄履きで登った波止です。」とありましたが、同じ新谷学級でしたので、新谷先生に黙って福智山に登り、先生の逆鱗に触れたことは良く覚えていますが、まさかあの時に下駄履きで登った級友がいたとは驚きでした。確かに鞍高の売店で売られていた下駄は頑丈でしたね。
前回あっちゃん(入江さん)からのリレーを受けましたが、いつもは他の人が書いた文章をレイアウトするだけで、自分が文章を書く事になろうとは・・・ちょっと変な感じですね。昨年5月に福智山に登った時に、あっちゃんが山野草の名前に詳しい事には驚きでしたが、彼女の言葉がたどたどしいのか、僕の耳が遠くなったのか「ひとり静、おだまき、ほうちゃく草」が「ひとり(あっちゃん)静かに!おだまり!横着そう。」と聞こえたのは僕だけでしょうか?今年5月に登った時は、見たこともない不思議な花を撮影して「ぜんまいみたいな花の名前わかりました。銀竜草(別名:幽霊茸)でした」と調査結果を報告してくれます。
私生活では、子供4人がようやく就職し、奥さんとワンコと福智山登山口で静かに暮らしています。昔はあちこちの有名な山に遠出して登っていましたが、最近では福智山のルートをあちこち探しながら「今日は登山日和になりそうだ。」と思ったら、散歩がてら福智山、鷹取山、雲取山、尺岳と福智連山を踏破しています。
ワンコと福智山ダム周辺を散歩している時も級友に会うこともめずらしくありません。登山日和に誘われて有休をとって平日に登ろうとした時(午前11時頃)に下山してくるシーちゃん(林繁広くん)にバッタリ!シーちゃんもよく福智山には登っているようで、福智山に登ったその足で、いったん上野に下山し、そのまま鷹取山に登るつわものです。
登山のメンバーは色々と変わりますが、「ハイキング気分で福智山まで登るルートがあるから・・・」という誘いに、秋の福智山登山を約束してくれたユリさん。次のリレーメッセージをお願いします。今年の秋に皆と一緒に登れれば、その時の様子を書けますね。へばった時はシーちゃんがおんぶするそうですよ。
最後に鞍陵25に関わって一番嬉しかった事は、高校時代に話をした事も無かった人に、今では親しくさせてもらっている事です。高校時代からの友達、そして鞍陵祭の当番以来の友達、みんなに感謝です。
これから先、定年を迎え、仕事を通じて知り合った人達とは自然に疎遠になっていくでしょう。でも、鞍陵25の仲間とは益々楽しい時を積み重ねていくような愉快な老後が待っていると思うとワクワクしてきます。

宮瀬(栗原)優里です (3年8組)
2012年12月 掲載予定です