ようこそ 鞍陵25回のリレーメッセージへ

Cルート
福川 正明です (3年2組)
私の履歴書(5年周期)と近況
15歳 下駄とプラタナスの校章に憧れて念願の鞍手高校に入学。
20歳 洋酒コレクション(主にブランディー)の小さな小さな芽が出始める。
25歳 大好きだった流通業の仕事を退き、大嫌いな公務員に転職。
30歳 長男"孔明"誕生。
35歳 公務員の仕事に満足できず10年間悩み続けた末、地方公務員法第38条1項に規定する許可を得て、不動産の仕事を始める。店舗、学習塾及び自宅を新築。
40歳 6世帯アパート(メープルハウス)新築。学習塾増築。(エム・エフ企画)
45歳 潜水士の国家資格取得。全日本潜水連盟(JUDF)1級ダイバー認定。志賀島の白瀬ダイビングポイントでボランティアとして海中散歩ガイド及び海洋講習開始。 50歳−?
振り返ってみると意識した訳ではないのに5年毎に人生の大きな節目が訪れています。その時々では重大決心で事に臨み、石橋を叩く慎重さと一方では計画を具現化する為のスピードとの狭間で葛藤し、思い悩んでいた頃の自分が懐かしく思えます。この間、反対するどころかいやな顔ひとつ見せないで「失敗を恐れず、怯まず、たじろがず」と優しく言って、小心者でか細かい私を勇気づけ全面的に支えてくれた美智子(さん)に感謝しています。何と力強く逞しい妻だろう。
現 在−今、42歳の時に始めたスキューバダイビングに夢中で年間に6回程ダイブツアーを企画し、ケラマ諸島を中心に与那国島、石垣島、宮古島などに出掛けています。この歳になるまで"遊び"には全く縁のなかった私ですが、今やダイビング私にとって遊びを越えた存在になり人生を楽しむ最大の手段となっています。日本では若者のマリンスポーツだと思われがちですが、諸外国では会社をリタイヤした年配者のレジャーとして定着しているようです。還暦、古希、喜寿、米寿、そして白寿記念ダイブを夢見て体が動く限り続けたいと思っています。
終りに、長い人生の中で僅か3年間鞍高で同じ時間を過ごしたというだけで、これほど強い絆で結ばれ、親友が存在し、語り合える機会を提供してくれた鞍陵25の役員の皆さんをはじめて全ての同窓生に感謝いたします。同時にこの企画を立案し、軌道に乗せ、発行まで担当して下さっている方々に心からお礼申し上げます。
リレーメールの次の方・・・・・松本(中野)真理子さんです。

松本(中野)真理子です (3年2組)
「お母さん、信じられんよ!こんな世界があったなんて知らなかった!!」
去年初めて沖縄にスキューバーダイビングに行った娘からの電話。受話器の向こうで興奮冷めやらぬよう。とにかくこの感激を早く伝えたいとばかりにしゃべりまくる。
 思えば3年前の鞍陵祭で久しぶりに同じ2組だった福川くんに会ったことがきっかけだった。彼は、よく日焼けしてどことなく生き生きしている。話を聞いてみるとなんとスキューバーダイビングを楽しんでいるとのこと。そうとうはまってるな!話し方でわかる。目の色が違うのだ。彼はしきりにダイビングを勧めてくる。しかし本来冷静さに欠ける私にはとても勇気が出ない。あっさりとその時断ってしまった。そしてその話を家に帰って家族にすると娘が一番に「ワ〜私潜ってみたい。お母さん頼んでみて!!」とすぐに言ってきた。ま〜なんと現代の子供は、怖いもの知らずなことか。だけど勇気の出ない私の代わりに潜ってもらって話を聞くのも楽しそうと即福川氏に連絡をとった。以来福川氏は、娘のダイビングの大先生となり崇拝する海底の王者。志賀島で講習を受け昨年より夏には沖縄ダイビングツアーにお供している。福川氏もまだまだひよっこの娘に手ほどきをしてくれ申し訳ないくらい面倒をみてくれる。今年の沖縄ツアーは、福川氏の長男、土井パン(ゴメンね!)の長男も一緒だったようだ。台風に出くわしてしまったもののそれは楽しかった様子。向こうで盛り上がりついでに「MFダイビングクラブ、鞍陵25ジュニアー会を結成したらいいね」なんて話も出たようだ。思わぬところで思わぬ展開。30年前まさか自分の娘が福川くんにこんなにお世話になるとは思ってもみなかったこと。たった一年間同じクラスだっただけなのに同級生とはいいものだ。娘には、得意げに高校時代の思い出話をする。いいとこ取りだけなんだけど。
中野(松本)さんの次は、1組の小林喜平さんにリレーだそうです。よろしく!

小林 喜平です (3年1組)
私事ですが、3月1日に結婚しました。
結婚式の案内状の住所の整理をしていた時のことです。彼女が突然、「えっ!」と声をあげたので、「どうかしたのか?」と聞いたら、「松岡潤一先生は、嘉穂高2年の時の担任だった」というのです。松岡先生には、20年程前、偶然、志賀高原スキー場で会ったことがありました。「嘉穂高校」の看板をホテルで見つけて、「確か、松岡先生は、嘉穂に転任したはず。もしかしたら、来ちょるかも知れん」と尋ねていったら、やっぱりいたのです。その時はロビーで30分位、話をしたと思います。嘉穂高はわたしのかみさんが2年のこの年から、修学旅行でスキーに行くことになったのです。だから、彼女にも、もしかしたら、スキー場で出逢ったいたのかも知れません。
そういう縁なので、今年が定年の松岡先生には、最後の卒業式の日でしたが、無理をお願いして来ていただきました。結婚式といえば、「30までには、結婚する」と私たちに約束していた松岡先生の結婚式は、私たちが卒業した年の春でした。鞍陵学館在校生からお金を集めて、お祝いの品(すきやき鍋セットだったと思う)を持って、飯塚で行われた披露宴に何人かで乱入して、「独身卒業証書」を手渡したのでした。
そして、教師生活を卒業する年に、私の「独身卒業式」の祝辞をくださったのが、松岡先生。紙面が足りないので、祝辞の内容を紹介できないのは、とても残念です。卒業と結婚。私たち夫婦と松岡先生の不思議な縁です。
「蛇足」・・・
鞍陵25回の東(幸)会長はじめ、有志の方々には、心のこもった二次会を催してくれて感謝しています。
また、3月1日は、「所沢の管制のシステムの事故で、全国の空港が大混乱」という日でした。最高で9時間30分遅れた便があったのですが、なんとこの便で私の友人11人が東京からお祝いに駆けつけでくれることになっていました。福岡空港に着いたのが午後10時30分。披露宴はおろか、二次会も終わろうとしていた時間です。おかげで、披露宴の段取りは、滅茶苦茶。でも、そういう事故があったことはみんな知っていたので、出席してくださった人たちがみんなで盛り上げてくださいました。遅れた東京の友人たちは、翌日、福岡のホテルで、日本酒4升あける披露宴の二次会を開いてくれました。「人騒がせな喜平」らしい、結婚式となりました。
次は、新潟の加藤(田中)美恵さんにお願いします。

加藤(田中)美恵です (3年6組)
突然の平田周子さんの訃報 言葉が出ません。遠く新潟に住んでいてなにも知らず、お通夜にも告別式にも出席できなかったこと、本当に悲しく淋しい気持ちでいっぱいです。
3年か4年前鞍陵祭で会った、あれが最後だったのか・・・・・・。
あの時、周子さんは(高校の時はババとよんでいましたね)昔と少しも変わらず,若若しく気さくで、しかも元気だった!本浪君(モッちゃん)と三人で2年5組の頃の話をしましたよね。だけどきっと又会えると思っていたので、高校を卒業して今日に至るまでの話を少しもしなかったこと、今とても後悔しています。でもあの時のババは素敵に歳を重ね、とても魅力的な女性になっているようにみえました。そして、カッコイイ、いいおんなのまま天国に逝ってしまったのだから、わたしの心の中ではいつまでも若若しくて気さくでカッコイイ、ババのままです。魂の世界では空間は無限だそうです。
ババのご位牌にお線香をあげることはできなかったけれど、今いろいろな場面のあなたを思い出しています。もう、会って話すことはできないことがとても悲しいけれど、あなたと仲良くしていた頃のことを、あなたのことを思っていることが、あなたへの供養になると信じています。ご冥福をおいのりします。
高校を卒業して以来、一度もホ−ムシックにもならず自分の好きなことだけをして、前だけを見つづけて生きてきて、淋しいなんて思ったこともなかったけれど、ババの訃報を、9月のことを年末まで知らなかったこと、まいりました。たった一人で悲しみに暮れている田中美恵です。
次回は、ババと同じ北九州市部の川上秀二さんにお願いします。

川上 秀二です。 (3年1組)
リレーメッセージ、ご指名頂きありがとうございます。北九州支部の川上です。
 原稿の〆切が迫り、いつも懐かしい思いで読まさせてもらっている25回生ニュースを、取り出して驚きました。前号は、なんと新年号だったんですね。つい最近と思っていましたが、半年近く経っていました。そして、内容を読んで、またビックリ。鞍陵祭の当番幹事は2001年。3年も経っているんだ。前号の冒頭で、東さんの「2003年も時速581km位で過ぎた」との表現がありましたが、何故581なのかはともかく、確かに最近は、時の経つのが速い気がします。我々の時代には、飛び級なんて無かったから、今年度中に全員漏れなく、50歳台に突入するんですね。それでも、同級生の訃報は辛い。会社で私が言うと笑われますが、皆さん、健康にだけは充分に留意しましょう。
 私の方は、昨年より仕事の分野が変わり、毎月、東京、大阪、福岡、北九州を拠点に、夜の部をメインとして、体力勝負で転戦中です。機会がありましたら、北九州以外の飲み会にも混ぜて頂ければと考えています。次は、田川郡金田町出身の吉宗尚さんにお願いします。
(581Kmの回答・・・原稿を書いていたその日の新聞に「世界最速(リニアモーターカー)581Kmを記録」という記事が目に飛び込んできたので・・・東真須美でした)

吉宗 尚です。 (3年1組)
同じ組の川上から引継ぎました。彼とは仕事上での付き合いもあります。
今、これを異国の地、インドで書いています。年末帰国後では間に合わないようですので、相応の通信手段で送付します。
【事務局:広報担当です。このメールを川上君径由で受け取った時は、すでに印刷に入っていましたので、申し訳ありませんが次回のニュースに掲載することになりました。そこで、ホームページでは早めに掲載することにします。】
ここは、東部カルカッタ(耳にはコルカタと聞こえます)から、車で4時間のHaldiaという田舎です。
私の仕事の話をしても興味ないでしょうから、インド紀行もどきをレポートします。限定された地域の話ですが、「○○の歩き方」よりも 参考になるかもしれません。以下、順不動で独断も交えていますので、悪しからず。
1. アクセス(to カルカッタ)
日本からの直行便はありません。福岡からは、タイまたはシンガポール経由となります。毎日、運行していませんので、注意して下さい。航空会社はSQかTGがお勧めです。某航空会社は中古機ばかり。おまけに機内はうるさく、臭い。
2. 気候
11月、12月は朝、晩、しのぎ易く、日中も30度以下です。旅行にはこの時期が最適です。私達は半袖なのに、彼らはマフラをしています。暑い時期を希望するなら、雨季だけは避けて下さい。熱帯のスコールでなく、梅雨にように間断なく降り続けます。
3. 物価
日常生活品などは、日本の1/30から1/80。床屋は40円。シャツのクリーニングが4円。
4. ここで、いきなり女性
目の大きい人が多い。日本の漫画を見ているようで、私は少々気持ちが悪い。
5. ついでに酒
インドビールはまあまあ。ハイネケン風の薄味。ウイスイキーは飲まないほうが良い。酔っているのかわからない感覚で頭がフラフラします。インドビールにStrong-Beerというものがあります。インドウイスキーを混ぜてあります。要注意!
6. 有名な?階級制度
公には廃止されたという事ですが、間違いなく存在しています。旅行者は感じないでしょうが、仕事でインドにいる私達ははっきりと感じますし、またそれと分かる事を経験しました。
7. 衛生
日本人が泊まるような高級ホテルには、トイレットペーパはありますが、他は・・・・・お分かりでしょう。ペーパは日本と同じサイズですが、堅く巻いていません。1/5か1/6の量です。
8.
短期であれば予防接種は不要ですが、Food/Water Poisoning用に胃腸薬は必須です。
9. 車窓 他
都会?のカルカッタはそれなりのビル群ですが、田舎は単調な風景です。但し、いろいろな動物にお目にかかれます。牛、豚、山羊、サル、犬、ジャッカル。これらが、堂々と道を横断しています。車に殆どサイドミラーなし。あっても、全然見ない。後方確認の意識、皆無。
10. この国の人
恐ろしく視力が良い。暗がりでも、人相を見分けることが出来る。日本人を尊敬している。(私の勝手な誤解かな?)タイ人から嫌われている。(Noisy,Impolite,Body-odour etc.)
日本人の海外旅行ブームは凄まじいものがありますが、インドまで足を運ぼうという人はまだ少ないようです。よくインドに行くと日本人は嵌る(はまる)と言いますが、せめて1度は行ってみたら、でも、1度で十分かも。
ツアーで、タイかシンガポールに行き、オプションで1泊インドというのが無難でしょう。
まだ、書きたい事がたくさんありますが、・・・もどきでなくなりますので、これで止めます。私自身は、日本と往来しながら2,3年いることになるかもしれません。地の果てにお越しの予定のある方、または興味にある方、お尋ね事あればメール下さい。
次は、小、中の同級生、山下美子さん(旧姓:田中)、お願いします。

山下(田中)美子です。 (3年6組)
吉宗君、リレーメッセージを引き継ぎますね。
さて、この頃私は時代の流れに乗り遅れてしまっているのでは・・と少々不安になっています。と言うのも、電気屋さんの持って来たTVのチラシの内容の殆どが理解できないのです。電気屋さんが、2011年に地上波がアナログからデジタルに移行するので、この際それに対応できるTVを買い換えませんかと言うのですが、この説明が分かったような、分からないような、イマイチ、ピンとこないのです。要するに数年後、何とかチューナーという器械を取り付けないと、我が家のTVは観られなくなるのかと聞くと、その通りだと言うのです。
それは大変とチラシに目を通して、ビックリ!!意味不明の文字ばかりが並んでいるではないですか。地上・BS・ 110度CSデジタルハイビジョン・プラズマTV、37型343,000円也。他にもダブルチューナー、SD動画、フルHD等々。ここで私が分かるのは、37型とは画面の大きさで、プラズマTVは画面がとても美しいらしいという事だけです。一般家庭にこれ程浸透しているTVの事でさえ、こんなに分からないとは・・・。家事と育児に追われている間に、世の中はここまで進化していたのかと、浦島太郎にでもなったような心境です。考えてみると携帯電話もろくに使いこなせない51歳には、仕方ない事かもしれませんね。来年は一念発起して、パソコンにチャレンジしてみようかな!!
いやいや、それより携帯メールが先ですね。
ところで先日、近くのスーパーで香月成文君(幼稚園、小・中と一緒)のご両親と20年ぶりにお会いしました。お変わりなくて何よりでした。と言う訳で、次は香月成文君!!お願いします。

香月 成文です。 (3年3組)
「リ、リレー?メッセージ……」と僕が口ごもっていると、受話器の向こうから「近況報告でいいから、会報読んでないんだったら何回分か送るから、多少遅れても私がネジコムから!」と、張りのある元気な東さんの声。「別にわざわさネジコンでくれなくても……」と思ったのだが……。
それから2日ほど経って届いた「2001年鞍陵祭・記念冊子」と会報3回分を見て、何を書いて良いのやら余計に分からなくなってしまった。近況と言われても、高校を卒業して30数年ほとんどの同級生とは没交渉で、金田の連中にしてもここ7、8年は年賀状や電話くらいで顔も見ていない。そういえば、行雄ちゃんとは2年前東京で会ったっけ。(それにしてもどうなっているんだ。吉宗が書いて、美子さんと中川が書いて、次が山口と僕?!これでは金田中学同窓会じゃないか。)
………というようなわけで、リレーメッセージを引き継いだ香月成文です。
さて、あまり悩んでも仕方がないので、とりあえず僕の仕事「日本語教師」のことを書いておこうと思う。
京都の進学塾で数学や物理を教えていた19年前、ひょんなことから中国の大学で日本語を教えることになり、4年間中国の温州と蘇州に滞在した。その後、91年の秋に京都に戻ってからもずっと大学と日本語学校で外国人留学生に「日本語」を教えている。
「日本語を教える」といってもイメージしにくいと思うので少し説明しておくと、大学の留学生(多くはアジア系学生)には「書き言葉」の運用力を育てる、つまり論文やレポートなどの特有な表現・語彙を解説したり、それらを使って書かせたりしている。一方、日本語学校では、アジア系だけでなく欧米系学生もいて、その目的も進学、就職、遊学と多様で、日本語レベルも幅が広いから、いろんな教え方をやっている。また、週に1回だけ理系進学志望者に基礎科目講座として数学(微積分や行列など)を担当してもいる。
学生時代、英語など語学が大の苦手であった僕が日本語教師を20年近く続けられて来られたのは、ネクタイなど年に一回卒業式に締めればよいという学生相手の気楽さがあったことが大きいのだが、一番の理由はやはり若い留学生の情熱や意欲に後押しされて来たことだったろうと最近つくづく感じている。
ところで、リレー・メッセージということは、次に誰かを指名するのがルールなんだろうけれど、僕の鞍高時代に付き合っていた、話していた友人というのは、金田の連中を除けば、どちらかというとシャイで無口で……。田中、いや山下の美子さんみたいに、この会報読んでいるかどうか分からない人に連絡もとらずバトンを渡すといった無謀なこともできるわけがない。そこで、京都の空にバトンを投げるので、僕のことを覚えてくれている人がいたら誰か拾ってください。ひとり拾ってくれればリレーは続くし、もし何人かが拾ってくれるのなら何人であろうが東さんが皆ネジコンでくれると思うので、よろしく……。最後に、京都に来られることがあれば、是非ご一報を。

外村 律子です。 (3年2組)
ヘトヘトです。この歳になっても毎日息子の弁当を作るのが・・・朝が大嫌いなのに、弁当は朝が勝負だから。この息子、食物アレルギーがあり、保育所、小学校、中学校をずっと弁当持ちの日々でした。いま、工場に勤めているが、やはり弁当持ちは変わらない。親だからこんな困難な課題に20年も立ち向かってるよ。しかしヘトヘトなおっ母の朝は今日もまた明けるのです。この頃は夜も眠たくてなかなか原稿も書けないのです。
ところで、弁当に専念してしているのが私の主要な仕事ではなく、他に職業はあって、公務員として働いています。もうかれこれ30年近く。私の職場は学校。学校を出て、学校に勤め続けているのです。攻撃の的になっている公務員で、関心の的の学校はずっと私の生活と人生と共にあります。学校はたくさんのクレームが来るところです。関西ではそんなんを「いちゃもん」つけると言ったりします。子どもたちの言動は学校への苦言、助言、通報となって地域の方から、あるいは保護者から届き、解決、対策を求められます。
クレームをお聞きしながら、無力な自分を感じます。相手の方の憤りは学校の中にいる私たちこそ毎日感じている事が多いし、何年経っても繰り返されることなのです。
昔の子どもは賢かったのかな。自らの高校生活当時を思い浮かべながら、果たして子どもは変わったのだろうかと考えてみます。変わったのは子どもではなく、大人の方でしょうね。子どもの現実は世の中の写絵なのだと思います。
クレームを発信される皆さんは学校に期待してくれていると思います。悪戦苦闘しないと子育ては出来ない、一筋縄では子どもは教育できないのです。そして、頑張った成果はすぐ目の前に現れないのです。だから、楽しみなんだ、ですよね。
京都に住んでいます。また、皆さまのご上洛お待ちしています。※ツワーコンの外村※
次は、中原くんちゃん(邦枝)にバトンを渡したいのですが・・・

堤(中原)邦枝です。 (3年2組)
外村律ちゃん忘れないでくれてありがとう。
それにしても、まさかの指名にびっくりでした。でも、これも病気なんかに負けず頑張るんだよ、との激励だと受け止め有難く思っています。昨年は以前から患っていた内リンパ水腫が悪化し、耳鳴、難聴、胘暈になやまされ、不調の一年でした。加齢現象も加わり好きな仕事も満足にできず、情けない思いをしました。まずい水薬を最大限服用し、点滴治療受けるも改善せず、もうダメだと諦めていました。でも女の意地。母の力が残っていたのでしょうか、十月末より徐々に回復し、今はあの胘暈がうそのように元気です。
私は現在、宇部市で助産師業務の日々を過ごしています。専業主婦からの社会復帰は大変でしたが、今は若いお母さんと可愛い赤ちゃんからエネルギーをもらい楽しく働いています。何かと問題多き産科の中で、あとどの位対応できるのか体力次第ですが、好きな仕事に専念できる喜びをかみ締め頑張るつもりです。
(出産に関するご相談、いつでも承ります)
次は、高校三年間マラソン大会でいつも一位だった相場(大道)泰子さんにお願いします。

大道(相場)泰子です。 (3年2組)
鞍陵25回ニュースを受け取ったのは、まさにこれから“夏本番”というような暑い日でした。堤さん(中原さん)の文章を読みながら、やっぱりみんなそれなりにお年頃の悩みを抱えているんだなあと小さなため息・・・私もすっかり○○鏡のお世話になってるし、買い物に行って通路を歩きながら「アレッ?私なんでここを歩いてるんだっけ?エート何を買うんだっけ、ウーン思い出せない・・・もう一回スタート地点に戻ったら思い出せるかなー」と同じ通路を行ったり来たりしている今日この頃、堤さんの文章にウンウンとうなずいてました。そして最後まで読んでビックリ!何と次の指名に私の名前が!「ウッワアアー!どうしよう、何を書こう・・・」と思っているうちに、ついに11月も残りわずかになってしまいました。という事は今年もあと一ヶ月、一年経つのって本当に早いですよネ、ついこの間年末の大掃除をしたばかりのような気がするのに・・・またドタバタと一年が過ぎていくんですネー。そんなあわただしい本番が始まる少し前、毎年11月の中旬には、いつも大阪の守口で近畿鞍陵祭が開かれている様子ですね。(もちろん今年も盛況だったようで)「様ですね」なんて、何て他人事みたいな言い方と思われる方も多いでしょうが、実は私週末はいつも仕事で、今まで一度も参加したことが無いんです。さわやかな秋の一日、京阪守口駅前の大きな歩道橋の横の白いホテルで筑豊弁が飛び交っているのを想像しながら毎年過ごしていました。(今年は仕事をやめてたんで参加出来るかもと思ってましたが、残念ながら別件で参加できませんでした)その歩道橋の中央には大きなカラクリ時計があって、時間になると、何とも言えない心和む音色に合わせてかわいい人形達が踊ってるんですよネー。一度も会いに行ったことが無いのによく知ってるでしょ!実は高校時代卓球部だった私は、今もオバチャン達のクラブチームに入ってピーンポーンとやってるんですが、守口でも毎月一回試合があり(といっても、大勢のオバチャンが集まってワイワイ楽しむ気楽なものですが)しかもその場所がホテルと目と鼻の先なんです。なにせお年頃なもんで、気持ちはあっても球の速さについていけなかったり、かっこよく打ったつもりで空振ってたり、調子に乗り過ぎて痛テテテ・・・だったりと、そんなこんなで一日過ごして、日暮れ時からは気の合った仲間と反省会(?)して大いに盛り上がって家路につく、というのが楽しみの一つです。家の事、仕事の事、その他諸々ため込んだストレスを一気に発散!(試合の結果があまりにひどくて、かえって落ち込んでしまう日がありますが・・・)まあ、そんな風に日々過ごしております。勿論来月も行って来まーす!(ちなみに私の住んでいる京都から目的地の守口市体育館までは約一時間半程かかります)
さて私の近況報告は一応終わりました。次は誰のお話聞こうかなーっと・・・ンーやっぱり孝代(旧姓山崎、現在八波孝代さん)貴女かなあ、高校時代、同じ歳なのに、何故かお姉さんみたいに感じてた貴女、私もなかなか福岡に帰る機会がなくって、いつも年賀状でのご挨拶だけになってしまってますが、体操部だった貴女のストレス発散法は何ですか?ぜひぜひ聞かせて下さい。楽しみにしてますヨ!では・・・
アッ、忘れてた。追伸:堤さんは私の事毎年マラソン大会で一位になったって書いてましたが、それは間違いです。私が一位になったのは三年生の時だけです。

八波(山崎)孝代です。 (3年8組)
鞍陵25回生の皆様こんにちは。福岡鞍陵会にもなかなか顔を出さず、「えーとこの人どんな人だった?」って思う方もいらっしゃるかも。それくらい皆様とはすっかりご無沙汰しています。それでも鞍陵会ニュースが届くのが楽しみで、すぐに開いて読み、この写真の人誰だったかな、なんて考えながら何回も読んだりしています。でもvol32が届いたときには本当に驚きました。「あっ!相場ちゃんだ!えっ!次私!?」ということになってもなかなか筆が進まないうちにお幸から確認の電話がかかってきてしまいました。
さて私の近況はというと、4年前に同居していた義母の介護などを機に28年の看護師生活にピリオドを打ちました。しかしそれも2年という間で終わってしまい、そのあとは何もせず専業主婦やっています。暇にしているとろくなことがないですね。ン十肩や高血圧であっという間に生活習慣病の仲間入りです。まっいいっかで改善されない食生活・継続されない運動などなどでメタボ一直線。そして私のホームドクターはなんと鞍高26回生で、体操部だった私に「高校の時のあの赤いレオタードは忘れられません」なんて言われ赤面しきりです。あの頃に戻れたら戻りたーい。
最近は長女に息子が生れ(つまり婆ちゃんになり)婆ちゃんって楽しいなとただただメロメロになっています。そして時には夫の趣味に付き合って、山登り?山歩き?をしています。英彦山やミヤマキリシマの頃の九重、近場の宗像の山々、一度は乗鞍岳にも挑戦しました。「ハアハア」言いながら、「もうだめだ!!」と泣き言を言いながらもついていくとそこに絶景が現れる。頑張ってよかったなぁと思う瞬間です。いつかの号に福智山に登った記事がありましたよね。「いいなぁ」って読みました。最近は何かと忙しく行けてないのが実情です。
まぁ平々凡々と毎日を暮らしている私の近況報告は終わりました。次は誰にバトン渡そうかな。宮永(梶野)芳枝さんあなたにお願いします。近くにいるのに会わないねー。 よ・ろ・し・く。

梶野(宮永)芳枝です。 (3年2組)
同級生の皆さんこんにちは。鞍高を卒業して今日まで県外に住むこともなく近くにいるのに、鞍陵祭に出席したのはたったの2回だけ。でも11月1日(土曜)福岡での集まろう会に、バトンをつないでくれた山崎さんと勇気を出して行ってきました。
会ってすぐに名前と顔が一致する人。「解かる。解かる。」と言いながら名前の出てこない人。懐かしい時間を過ごしてきました。
卒業してから早や36年。その間私は大学を卒業し、薬剤師とし働き始めて今も調剤薬局で働いています。変わったことは、あの頃の黒ぶちめがねはコンタクトを経て普通のおばさんめがねに。ずっと増加の体重にストップをかけ一大決心してメテボ脱却に励みました。理由は丁度一年前の健康診断で多数の項目にチェツクがついたこと。そしてなによりドクターのいやみな(お医者様ごめんなさい)いやいや心からの御助言に奮起したこと。おかげで薬局にこられる患者様に「痩せたんじゃない?具合でも悪いと?」と心配していただき、立場が逆でしょうと笑っています。
9月に娘が、結婚しました。その娘が宗像高校の時(つい最近と思ったら、これももう14年も前のこと)、保護者会で資料を手渡してくれた先生のお顔をみて、あっ、この先生知っとう!皆さん誰だとおもいます?あの榊先生。地学の榊先生でした。びっくりしました。地学の授業で天気図を何度も書かされた話で娘と盛り上がりました。25回生ニュースが来るたびに昔を思い出しています。
八波(山崎)さんから受けたこのバトン、高校大学と一緒だった勝見(八木)美沙子さんへ、おねがいしま〜す。

勝見(八木)美沙子です。 (3年2組)
皆さんこんにちは。梶野(宮永)さんからご指名いただいた、2組の勝見(八木)美沙子です。今は宮若市(旧 若宮町)に在住しております。結婚当時は、主人の両親と同居しておりましたが、6年前より実家に戻ってきました。私、学生時代から「理想の結婚は?」と聞かれると「サザエさん」と言っていた様で、やっと夢が叶ったという訳です。
家族は主人と、娘 2人、ミニチュアシュナウザー犬のジル(5歳)君です。長女は、3年前に東京に就職、次女も今春 福岡市内の病院に就職しました。昨年暮れ、第1希望の病院の募集要項を見せてもらうと、理事長の欄に見覚えのある名前、ホームページで確認するとそこには やはり見覚えのある顔、那須 繁さんでした。市内の就職は厳しく、又 娘の学校からの採用歴も無いとのことで、とても心配しておりましたが、私の切なる思いが通じたのか採用が決まり、世間は広いようで狭いものだとつくづく納得した次第です。
という訳で、今は主人と2人、いやいや長男ジル君との3人家族です。近くの病院に薬剤師として勤務しております。
 趣味は、社交ダンスとガーデニング。今の季節、お休みの時は家のかたずけもそこそこに庭の手入れに励んでいます。仕事と家事に追われる毎日ですが、主人にも家事を手伝ってもらい、平凡ではありますが気ままな幸せを感じる日々を過ごしています。
 次は、高校時代仲良しだったのに、なかなかお逢いできない鎌田祐子さんにお願いします。

上枡(鎌田) 祐子です。 (3年2組)
大変ご無沙汰しています。勝見(八木)美沙子さんからご指名いただいた、上枡(鎌田)祐子です。
勝見さんを始めとして25回生の友達とは、高校卒業以来ほとんどお会いしていないのではないかと思います。ご指名いただいて驚きました。
私は今も高校時代と同じ町に住んでいます。大学を卒業してすぐに、北九州市の小学校教師として勤め始めてから、今年で33年目になります。今は八幡西区の小学校で6年生を担任してしていますが、泣いたり、笑ったり、怒ったりと刺激的な毎日です。
人間が相手の仕事は責任が重いけれど、面白く楽しいです。それでも年々専業主婦へのあこがれが強くなっているのは、年のせいでしょうか?
長男と次女は大学生で、青森と広島にいます。暮れに会えるのを楽しみに、主人と長女と猫2匹と穏やかに過ごしています。
実は3年前に命にかかわるような大病をして奇跡的に回復することができました。よく言われることですが、人生観が変わるというか、病気になったことで見えてきたものがたくさんあります。支えてくれた主人や妹、子ども達には心から感謝していますし、とてもいとおしく思います。大切な人達と一緒にいられることは当たり前ではなく、本当に幸せですし、少々嫌なことや辛いことがあっても、死ぬことの恐怖や悲しさに比べたらなんのことはないと思えるようになりました。今は平凡ですが、幸せな毎日です。
次にバトンを渡す人は・・・私と小学校から高校まで一緒で、病院で薬を処方してもらったことがある、渡辺和則さんにお願いします。

渡邊 和則 です。 (3年5組)
今年も鞍陵祭がすぐですね、皆さん元気ですか?
私の近況をリレーメッセージとして書かせていただきます。
6月初旬博多で飲み会があり、気持ちよく飲みすぎて家の玄関まで帰ってきて、鍵も無い、携帯電話も無い、何にも無い状況に気づき酔いも一気に醒めました。一応警察に届けて、諦めていたところなんと小倉北署より連絡があり、手元に戻ってきました。刺激的な出来事はこんな程度の事しかありませんが、携帯のない生活(20日間程)もなかなかいいものですよ。
「ちょっと近頃感じることがあるんよ」それは何かにつけ意欲がわかないというか、やる気が出ないというか湧き上がるものが何か足らんのよね。飲み事でも、ゴルフにしても、仕事に関しても『やったるで』という気持ちが沸いてこんし、ワールドカップを見てもちょっとしか感動せんのよね・・・これって何?
年齢的にも、男更年期障害でしょうか?まさかうつ病やないよね。まだまだ楽しくゆったりと生きたいよね。
次回のリレーメッセージは、東京でお世話になった『かしけん』こと、樫本謙一くんにお願いします。

樫本 謙一です。 (3年4組)
カズからリレ−メッセ−ジとのことで、カシケンこと樫本謙一の近況を報告させて頂きます。
東京在住の方々には時折遊んで頂いていますが、0.1トンの体重は高校時代から今も変わらず、体型も維持?しております。大学時代に柔道で挫折?し、アメリカンフットボ−ルへ華麗なる転身?を遂げ、大学生・社会人を通してプレ−し37歳で現役を引退しました。そのあと少年野球のお手伝いを始め、息子2人が引退した後も自分だけ引退できず、監督として5年前まで土日は毎週のように子どもたちと一緒に遊んでいました。東京在住の方々はよく知っている話ですが、仕事が忙しくなり、土・日も仕事をするようになってからは、子どもたちに失礼なので、今はグランドを去り、総監督として名誉職に退きました。もともと野球をやったことがない人間が監督なんて、所詮無理な話だったのでしょうが、やってみるととてもおもしろく、指導するのではなく、むしろ自分が指導されることが多かったように今では思います。千葉県の高校野球で活躍する選手たちは、ほとんどの子どもたちが小学校時代からの知り合いで、予選大会を応援に行くのがとても楽しみです。今年の春の選抜には甲子園まで妻と二人で出かけてしまいました。
26歳で結婚、3人の子どもを授かり、その子たちもそれぞれ独立し、今は夫婦二人で「どうやって暮らしていこうか?」と日々考えております。2年前に、「50代からの選択 ビジネスマンは人生の後半にどう備えるべきか」という本に出会い、老後をいかに過ごすか?妻と会話するようになり、結論から言うと、生まれ育った故郷に戻ることを計画しています。その時はまたよろしくお願いします。いっしょに遊んでください。あれもしたい、これもやりたい、今は千葉県の「道の駅」の完全制覇を実行中です。カシケンの近況報告でした。次は、おじいちゃんになったガンジ−こと、森 光博君にお願いします。

森 光博です。 (3年4組)
ガンジーです。みなさんにはご無沙汰しておりますが、お元気ですか!
カシケンからのリレーですが、カシケンとは鞍高を卒業後も上京組の同朋として学生時代はお茶目なこと・社会人になっても他人には言えない出来事等、公私に亘り親交を深め続けている間柄なので、今回バトンを渡してくれたのでしょう!?
さて、「ガンジー」というあだ名は、1年1組のクラスメートで演劇部の「倉田徹也」君が命名者だったと記憶しております。(自己紹介で一中体操した後だったかな?!)
新橋駅前機関車広場では、カシケンが、大きな声で「お〜い!ガンジー!!」と叫び、傍にいたインド人がびっくりしていました。甲府駅改札口でも山上勉ちゃんから、「ガンジーやないと〜!」と呼び止められ、東京鞍陵会でも、ここらへんで集まろう会でも、みんな「ガンジー!」「ガンジーさん!」と卒業後38年経った今でも僕のことを呼んでくれています。
倉田君!「ガンジー」をありがとう!! 僕の一生涯の宝物となっています。
そのガンジーもそれなりに人生の階段を昇り降りしておりまして、とうとう一昨年には孫ができ「じいじ」いや、「ガンジージ!」となってしまいました。孫がこんなにも可愛く、愛しい存在になっている今の生活を思った時、既に他界してしまった両親も同じ思いで我々家族、いや孫の帰省を待っていたんだろうなと、今更ながら、もっともっと逢わせてあげればよかったと、申し訳なく残念な気持ちで一杯です。
来年は、母の13回忌、父の3回忌となります。直方に眠る両親の墓前に、家族全員で元気な姿で報告に行くことにしよう!
6月で57歳となりサラリーマン生活もあと3年となってしまいましたが、僕には「鞍陵25」という無期限のオアシスを持っています。炭鉱の町から東京砂漠に移り住んでもこのオアシスのおかげで、元気を貰い、感激を貰い、青春を貰っています。幹事の皆様、事務局の皆様、ありがとうございます。
最後にバトンを渡す方をご指名させて頂きます。「ガンジー」の命名者(と確信している)倉田徹也君にお願いします。

倉田 徹也です。 (3年6組)
倉田さんの連絡先を探し続けましたが、分かりませんでした。Cルートはこれで中止とします。